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加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)

 保坂和志氏は小島信夫氏との公開対談のなかで、「戦後の日本の小説は小林秀雄とか平野謙というような、批評家主導で価値がつくられていったんじゃないか」と発言してます(「考える人」05年秋号 対談「小説の自由」より)。保坂氏の発言はこう続きます──「そうすると、小島信夫の小説なんていうのは、あがってくる余地がない。三島由紀夫は小島信夫の『抱擁家族』と深沢七郎の『楢山節考』を気持ち悪がったという。気持ち悪いと感じただけで、三島由紀夫は偉かったと思うんですよね」。

 保坂氏の言わんとすることは、あえて乱暴にまとめてしまえば、小説の読まれ方(あるいは書かれ方)には“規範”のようなものは似つかわしくない、作品に社会性があるとか社会性がないとかいうのでもまったくない、それぐらい小説という表現ジャンルは自由なものなのだ、ということだと思います。批評家が批評家の文脈に当てはめて作品を解釈すると、作品の意味合いを限定し過ぎ、本来は自由に呼吸をしているはずの作品が死んでしまうことがある。あらすじを紹介したり一言でまとめてしまった瞬間に、作品の生命はその手のひらからこぼれ落ちる──というのが保坂氏の小説論のひとつのポイントではないかと思います。ところが、今という時代は、大きな影響力のある批評家が何らかの文脈によって、小説家の作品を徹底的に批判する事態がだいぶ少なくなったのではないか。

 小林秀雄があらゆる意味で畏れられ、江藤淳の文芸時評に「カッ」とする小説家がいた時代など、とうの昔に過ぎ去ってしまったことはあらためて言うまでもありませんが、それにしても批評の周辺が物静かです。文壇というものが事実上なくなってしまった後に、どこか晴れやかでどこか索漠とした原っぱのようなものだけが目の前に広々と広がっている。黒い雷雲を生み出す寒冷前線はその気配すらなく、上空は青い。空気もだいぶ乾いています。批評という言葉を具体的な光景で思い描くと、そのようなさっぱりとした、そしてちょっと寂しい光景が浮かびます。

 しかし、個人的には、今ほど批評が面白い時代はない、と思っています。それはなぜでしょうか。昔、批評は、いつもどこか不機嫌な顔をしていました。だから読んでいるとこちらの眉間にも深く皺が寄ってきます。ところが今の批評には、不機嫌の相がないものが多い。人相が悪くないのです。苦笑いぐらいはするけれど、基本的には機嫌はいい。機嫌のいいものを読んでいればこちらも気分は軽やかになってきます。なぜ上機嫌なのかと言えば、背負って立つ重い荷物がないからだ……とは言わないまでも、だいぶ荷物が軽くなったのは事実なのではないか(それではこの「荷物」とは何か、という話になるとまた長い話になりかねないので、ここはスキップするとして──)。比較的機嫌のいい状態で書かれていると、眉間の皺がとれて視野は広くなり、懐の深いところまで目線が届く利点があるはずです。

 私のなかで機嫌のいい批評をする人、ということでまず思い浮かぶのは、古くは吉田健一氏であり、それから丸谷才一氏がいて、私たちの世代になってくるとまずは橋本治氏であり、最近ではその筆頭に内田樹氏が思い浮かびます。本書の著者である加藤典洋氏も、どちらかと言えば機嫌のいい文章を書く批評家と言えるのではないか。加藤氏の文章の機嫌の良さは、ときおり批評の岸辺から離れて小説的な深みをたたえた言葉の水底へと伸びてゆくところに現れています。その言葉の伸びていく感じが、加藤氏の批評を読むよろこびでもあるのですが、実はそこに至るまでには加藤氏なりのたたかいがあったのだ、ということが本書を読むことによって見えてきます。

 批評家としてデビューしたばかりの頃、加藤氏が柄谷行人氏の『隠喩としての建築』を論じることになったとき、そこにおびただしい思想家や哲学者の名前や引用、現代思想に特有の用語が溢れかえっていることにあらためて立ち尽くすような思いを抱きます。これらの背景を全部わかった上でなければ、勝負にならないのではないか。加藤氏はその不安に圧迫されて、不眠症に陥ります。マンションの部屋を午前三時頃に抜け出して、近所の河原の土手を歩きながら、自問自答を続けるうちに、加藤氏はこう考えます。「批評が何か、そんなことは知らない。しかしお前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に、百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ」。

 加藤氏は二日間の深夜の散歩を経て書き上げた『隠喩としての建築』を論じる文章を、このようにしめくくりました。「しかし、やっぱり、世界はそのようには成立していない。網は魚をつかまえるが、一尾の魚のもつ世界が網よりも大きくなければ、もともとその網が存在しないからである」。魚? 網? 世界? どういう意味でしょうか。加藤氏は本書のなかで次のように説明しています。

「この最後の二行に、当時の筆者のこの夜(注:不眠症になって散歩した夜のこと)の発見が語られている。
 一尾の魚を網はとらえる。けれども網が存在するのは、網よりも広い世界がそこにあるからである。そして一尾の魚は、その広い世界に属している。網は、魚を捕まえることで、その広い世界と関係をもつのだ。
 批評は、その網と似ている。網のことなんてふつうの人は知らない。でも網は魚をとるためにある。そしてその魚についてなら、誰もが、食べればおいしいか、おいしくないか、わかる。網のことなど知らなくとも、その網がよい網かよくない網かは、そこに捕まえられた魚を食べてみることで、誰にもわかるのである」

 本書を読み進めていくと、批評というものは、単に文学や哲学を論じるものを限定して指すのではないこと、すなわち批評はいま「広い世界と関係をもつ」表現全般にまで裾野をぐんぐんと広げているものなのだ、ということが見えてきます。小林秀雄からアインシュタイン、人生相談、マンガ、字幕に至るまで加藤氏の網はたっぷりと広く投げかけられます。なかでも、養老孟司氏の『唯脳論』、橋本治氏の『これで古典がよくわかる』、そして内田樹氏のホームページを出発点とした著作について論じた後半は圧巻です。今ほど批評が面白い時代はない、と先に書いたことを保障してくれるような、見事な「網さばき」なのです。加藤氏のつかまえる魚は新鮮でおいしい。本書を通読すると、とりあげられた数々の本をつぎつぎに読みたくなってきます。「太陽と北風」ではありませんが、機嫌のいい文章は人を読む歓びへとおのずと案内するものなのです。
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