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辻邦生『のちの思いに』(日本経済新聞社)

 辻邦生さんが夏になると長期にわたって滞在していた軽井沢は、日本的な何ものかに絡みとられかねない“重力”のようなものから、多少なりとも距離をおくことのできる特別な場所だったのではないかと思います。その軽井沢滞在中の夏に急逝されて、まもなく7年が経とうとしています。亡くなられたときに日本経済新聞でちょうど連載していたのが、この「のちの思いに」でした。本書が遺作ということになります。

 あらかじめ決められていたタイトルなのに、最後の仕事になることが予期されていたかのような雰囲気もあり、また内容についても、辻さんの大学生時代からパリ留学時代、そして小説家としてデビューする頃から、今はなき文芸誌「海」に『背教者ユリアヌス』を連載を始める頃までが描かれていて、最後にもう一度、自分のたどってきた道を振りかえっておこうとされたような気配も感じられるのです。しかし、それは後からの私たちの勝手な思いであって、本書の冒頭を読めば、この連載の成立事情と、この連載が単なる回想ではなく、小説家としてのフィクション的な筆づかいによるものなのだ、ということがわかります。

「いつもは編集者から小説を要求されるのに、こんどは趣向を変えて伝記のようなものを書いてほしいという注文である。筆者は小説であれ評伝であれ、書くものがあれば喜んで筆をとる。ただし今度は評伝といっても複数の人々を描いたらどうか、それもある時代に生きた青春の群像を描いてみたら、というのである。
 ある年代とここでいうのは、もちろん筆者が経験した時代のことである。それは長い歴史のなかでは、決して波瀾万丈とはいえない時期かもしれない。しかし第二次大戦が終って間もなくであり、何といっても形をとる前の混沌とした世相が渦巻いていた。筆者はそんな時代に大学に入り、規格の決まった時代にはおよそ味わうことのできない、これまた一種の混沌とした学生生活を体験することになったのである」

 東京大学仏文科で学んだ時代の、辰野隆、鈴木信太郎、渡辺一夫、森有正、中島健蔵といった錚々たる顔ぶれの恩師たち。また『チボー家の人々』の名訳者であり、その格別なダンディーさによって人気を集めた山内義雄。それらの人々が、小説の登場人物のように、そしてあたたかい血の通う存在として描かれています。自分の結婚の相談をするために、恩師である渡辺一夫の本駒込のお宅を訪ねた際の、記憶の鮮やかさはどうでしょう。渡辺一夫の知られざる横顔も見事にスケッチされています。

「先生が故六隅許六のペン・ネームを使って、以前から独特のスタイルの本の装丁をされていたことは、よく知られていた。おそらくその延長だったのであろう、先生は駒込の新らしいお宅の日の当たるテラスで、彫刻刀を器用に動かしながら、木工細工に熱中されていた。ブック・エンドのような簡単な細工物に始まり、もっと複雑な両開き扉が二重についた厨子型の『作品』まで、だんだんに手の込んだ木工品が増えていった。この厨子は、おそるおそる二度扉を開けると、中ににっこり笑った奥様の肖像写真が入っているという念入りな傑作だった」

 大学時代に出会った同級生の「リスちゃん」と結婚し、当時はまだ武蔵野の面影が色濃く残っていた国分寺で静かに始まった質素で可愛らしい日常生活(本書でもっとも小説的に描かれるこの「リスちゃん」とは、辻佐保子夫人のことです。他の登場人物たちと違って本名が隠されているのは、辻さんの含羞といたずら心によるものでしょうか)。小説家としての物語的な語り口は、信州の高原での日々やパリ留学時代の記憶(森有正との交流がまた興味深い)を、軽やかに流れるスケートのような筆致でたどり直してゆくのです。

 帰国後はいよいよ小説家としてのデビューする前後の様子が活写されます。日本は1960年代に入った頃。まだ文壇が確固としたものとして存在していた時代です。しかし辻さんの周囲には、そのような煙たい濃密な空気とはどこか無縁で、湿度の低い高原に咲く花のような存在の北杜夫、埴谷雄高、福永武彦、吉田健一、豊崎光一といった日本文学のなかで独特の位置を占めることになる人々が次々に登場し、「遅れてきた青年」辻さんのスタートした執筆活動に明るい刺戟を与えます。

 福永武彦の追分の別荘や、北軽井沢の吉田健一の別荘を訪れる辻さんには、微笑を呼び覚ますような爽やかな風が吹き抜けてゆきます。感情を滞らせる軋轢や澱みは、ここに描かれる世界からは、注意深く取り除かれている。このような文学への真っ直ぐな愛情は、辻さんが単に幸福な環境に守られていたために自ずと湧き出してきたものばかりではなく、「そのように」築き上げようとした明確な意志に支えられていたはずなのです。読書と人間を結ぶ懐かしい感情を大事にしようとした辻さんのスタイルは、必ずしも生得的なものとは言い切れない。自分で選び出した生き方だったのではないか。辻さんが最後までその場所で過ごすことを無上の悦びとされていた軽井沢の風景が、そのような辻さんを慈愛の表情で見守り、後押ししていたのではないかと感じます。

 1962年に初めての単行本『廻廊にて』を刊行し、そのちょうど十年後に、初期の代表作となる長篇『背教者ユリアヌス』を刊行するに至る辻文学が、どのような環境のなかで、文学へのいかなる思いによって支えられ書かれていったのかを、あらためて確認できるという意味において、本書は極めて重要な作品です。吉田健一を描いた章「吉田健一と文学の喜び」の冒頭──「『文学が喜びである』ことを私は吉田健一から教えられた。私は吉田さんの『英国の文学』を読み、それ以後、吉田健一の熱烈な信者となった。私にとっても、文学とは喜び以外の何ものでもなく、文学の喜びはそのまま生きる喜びだった」。辻文学がなぜ今なお私たちを惹きつけるのか。おそらくはこの「生きる喜び」への信仰にも似た気持ちが、その土台を支えているのです。

 まもなく辻邦生全集全20巻が完結します。本書は第16巻にその他の自伝的なエッセーとともに全篇が収録されています(辻佐保子さんの「あとがきにかえて」も巻末に再録されています。この本の舞台裏を描いたものとして実に秀逸なものです)。幼年期からの辻邦生を知りたい方には、この第16巻は、駒込の生家、赤坂の小学校、図書館の記憶、幼くして亡くなった兄への思慕など、幼年期の貴重な回想も含めて編まれていますので、この巻で通読されることをぜひおすすめしたいと思います。間もなく刊行される最終巻第20巻には詳細な年譜はもちろん、未発表のアルバムも多数収録されるようです。私もその刊行を今から心待ちにしています。
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