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福島章恭『モーツァルトをCDで究める』(毎日新聞社)

 20代まではロック系の老舗雑誌を定期購読していました。しかし30歳を過ぎた頃に定期購読をやめました。毎月次々に現れる新譜の数に較べて、面白く聴き応えのあるものが少なくなったからです。雑誌で評価が高ければ、ついついCDを買ってしまう。だから情報はいらないと思い、雑誌に手を伸ばすことがなくなりました。つまり90年代半ば以降の新人ミュージシャンを私はほとんど知りません。人に言わせれば「オヤジ」化した、ということなのでしょう。

 相対的に聴く時間が増えていったのはクラシック音楽です。なぜそうなっていったのかといえばそれは単純な話で、要するに誰の指揮で誰の演奏が素晴らしいかとかいう以前の、作曲家がつくりだした楽曲じたいの素晴らしさに、耳と心がつぎつぎとひきつけられてしまったからなのです。極端に言えば、素晴らしい楽曲がそこにあれば、どのような音楽家がどのように演奏しても、本質的には光の当て方のヴァリエーションであって、楽曲の素晴らしさはまちがいなくそこに浮かび上がってくる。照らし出された表情は様々であっても、「その人」は「その人」としてそこにいる、と感じるのです。私の聴き方はそのようなものですから、クラシック音楽の専門誌を買うことなど滅多にないですし、「名盤」で聴いていないものなど数限りなくあります。

 しかしそんな私であっても、気に入った楽曲は、いろんな人の演奏で聴いてみたいと思うことがあります。たとえばモーツァルトの「レクイエム」は、本書の著者が共著『クラシックCDの名盤・演奏家篇』(文春新書)で絶賛したフランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの日本公演ライブ盤を手に入れて以来、他の指揮者によるものを聴き較べては、やはりブリュッヘンがいい、と舞い戻って来ることになる愛聴盤のひとつですが、著者は本書のなかで「レクイエム」を新旧とりまぜ13種類も並べ、ひとつひとつ言葉を尽くして紹介しているのです。この徹底ぶりには本当に頭が下がります。

「はじめに」と「あとがき」も面白い。「はじめに」ではこう書いています。「私のような俗人には、家族や友人と過ごしたり、贔屓のプロ野球チームの勝敗に一喜一憂したり、『リッチなカレーあさの』(町田市)のカツカレーに舌鼓を打ったりという、それら身の回りの一切合財を、ただ音楽を究めるために捨て去る勇気はない。しかし、それら『生活』がすべてでもない。心の奥底には、崇高なるもの、絶対的な美に憧れる気持ちなどが絶えることなく燻りつづけている。そして、そのことが一番確かめられる時間のひとつが、モーツァルトとともに過ごす時間なのである」
 
 身を窶(やつ)す、という言葉があります。何かに夢中になっているうちに、お金がかかるのも厭わず、身なりも気にせず、経済的には恵まれない状態に追いやられてしまう。それほどのめり込むことは、本人の存在を脅かしかねない事態である、というニュアンスがこの言葉には含まれていると思いますが、著者の徹底した蒐集と聴きこむ姿勢を見ていると、身を窶す、という言葉がおのずと浮上してきます。カツカレーを食べていても頭のなかにはモーツァルトが突然鳴り響くこともあるのではないか、と想像してしまいます。「あとがき」にはこんなくだりも出て来ます。

「それにしても、よく買い、よく聴き、よく書いた。本書に紹介したおびただしい枚数のCD(またはLP)の九九%は自前である。地方の仕事から東京駅に降り立ち、まっすぐ帰宅することはまずない。旅行バッグをゴロゴロと転がしながら、未知なるCDを探し求めては、秋葉原、お茶の水、神田古書街を巡回し、ときには、渋谷、新宿、銀座にも足を伸ばす。時間にわずかの余裕があれば電車を途中下車してCD店を物色し、運転中もそれらしき看板を発見次第現場に急行する。地元町田の中古店数件にはほぼ毎日顔を出し、夜中になれば、インターネットで安売り情報を検索する、という凄惨なまでの日常(本人にとっては極楽)が本書を生んだ」

 出会いがしらに選んだ一枚のCDを繰り返し聴くばかりで、聴き較べをほとんどしない私ではありますが、本書を頻繁に手にとってあれこれつまみ読みするのは、著者の文章が単なる無味乾燥なガイドではなく、読ませるものになっていること(氏が音大時代、楽器運びのアルバイトを終えてたった一人で客席で聴いていた内田光子氏のリハーサル風景の臨場感あふれる描写!)や、聴き較べるという行為じたいがモーツァルトの楽曲へのあくなき追究になっているからでしょう。福島氏には本書と同じ方法で、ベートーヴェン版、バッハ版をぜひ執筆していただきたいと切望します。
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