明治17年(1884年)、深い山々を背負いながら、海に向かって開けた熊野の町に、大山林家の孫として生まれた一人の男の子がいました。両親はクリスチャン。しかし7歳のとき、名古屋の教会での礼拝中、大地震に見舞われ、目の前で父母を亡くします。男の子は山深い村に暮らす母方の祖母にひきとられ、7歳にして莫大な山林資産をふくむ家督を相続します。その名を、西村伊作といいました。

 作家・黒川創さんによる西村伊作の本格的評伝が、今号からスタートします。西村伊作の名前は、一般的には、与謝野鉄幹、晶子夫妻らとともに文化学院を創立した学校経営者、教育者として知られていると思います。伊作はじつは、教育者というひとつのジャンルにはおさまらない、驚くほど広い分野で独自の才能を開花させた、類まれな大正期のモダニストでもあったのです。豊富な財力を理想のために惜しみなく投入しながら、西洋絵画、建築、陶芸、教育、デザインと、多くのジャンルで先駆的才能を発揮。新宮での青年期には、アメリカ帰りの医師だった叔父・大石誠之助が大逆事件で死刑になり、自身もあやうく冤罪によって巻き込まれそうになっています。黒川さんはこう書き始めます。

 最初の記憶として残っているのは、どんなことか。
「自分の幼ない時からの記憶を繰り出して見ると、みなどれもこれも楽しかった事ばかり呼起されて来るような心持がします。我々の経験のうち、楽しいことの方が記憶に残り易いように、我々が作られているのではないかと思います」(西村伊作『楽しき住家』、1919年)――中略――
 西村伊作という人物の語り口は、感傷に流されず、いつもいたって明朗である。だが、はたしてそれが、わずか七歳で両親を目の前で突然失った人物による回想として、自然なものと言えようか。
 私は、これから始めるこの小伝で、彼――西村伊作の生涯を瞥見したいと思っている。最初のうちは、紀伊半島、それも和歌山・三重・奈良の三県がきわどく接する熊野川水系の一帯が、主な舞台となるだろう。

 伊作は、戦時中には不敬罪で六ヶ月拘束され、被告のまま終戦を迎えています。イデオロギーに与することはけっしてなく、けれど権力嫌いの姿勢は、若い日から一貫していたのです。美しいもの、愉快なことを愛し、女と子どもたち、日々の暮らしを愛した西村伊作。この、のびやかで気概にあふれた魅力的な人物の評伝を、どうぞごらんください。