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アーシュラ・K・ル=グウィン 青木由紀子訳
『ファンタジーと言葉』(岩波書店)

「ゲド戦記」の著者、アーシュラ・K・ル=グウィンを語るとき、彼女が作家になっていく道筋を理解するのにどうしても欠かせないのが彼女の両親の仕事です。父のアルフレッド・クローバーはカリフォルニア大学バークリー校に人類学科を創設した文化人類学者。母のシオドーラ・クローバーは作家。アルフレッドは人類学科を創設した十年後に、北カリフォルニアの小さな町に現れた「絶滅寸前の」インディアン、ヤヒ族の最後の一人と出会います。ヤヒ族は自分の名前を他人に明かさない習慣があるため、彼はヤヒ語で「イシ」と呼ばれるようになります。「イシ」とは「人間」という意味。アルフレッドは文化人類学者としてイシとつき合うのにとどまらず、やがて友情としか名付けようのない関係を築いてゆきます。

 イシは森の奥深くで隠遁するように生きて来たので、白人社会のなかで生活を始めたとき、もともと免疫のなかった「白い病気」である結核に罹ってしまい亡くなります。アルフレッドは大きな心の痛手を負います。しかし、そのことについて何かを詳しく書き残そうとはしませんでした。妻であるシオドーラは、1960年に夫のアルフレッドが亡くなったその翌年に、「イシ――北米最後の野生インディアン」(岩波書店)を発表します。この本は、「考える人」の2004年冬号の特集「大人のための読書案内」のなかで小林秀雄賞選考委員である加藤典洋、河合隼雄、関川夏央、堀江敏幸、養老孟司の各氏が詳しく言及しているので、お読みになった方もいらっしゃるかもしれません。

 ル=グウィンのエッセイを読んでいると、父のアルフレッドがイシを単なる観察や研究の対象としなかった厳格ともいえる態度が二重写しのように見えてくるところがあります。それはたとえば、ル=グウィンが「作家と登場人物」と題して書いている文章のこんなところ。

「もしわたしが自分の物語の登場人物を使って、もっぱら自分の自己イメージ、自己愛や自己嫌悪、欲求、意見などの要求を満たそうとするならば、登場人物たちは彼ら自身でいることができず、真実を語ることができない。物語自体は、それを欲求と意見の開陳の場と考えるならば、それなりに目的を果たせるかもしれないが、登場人物は人物にならないだろう。彼らはただの操り人形で終わる。
 作家として忘れてならないのは、わたしはわたしの登場人物だけれども、彼らはわたしではないということだ。わたしは彼らであり、彼らの言動に対して責任がある。しかし、彼らは彼ら自身である。彼らはわたしに対して、わたしの政治的立場に対して、わたしの倫理観に対して、わたしの編集者に対して、わたしの収入に対して、何の責任も負っていない。彼らはわたしの経験と想像力が具現化したものであり、想像上の人生を生きている。彼らの人生はわたしの人生を解明するのに役立つかもしれないけれども、本来わたしの人生とは別物なのだ。自分の経験と感情を具現している登場人物に、わたしが非常に強く共感することはあるかもしれないが、自分自身をその人物と混同しないよう気をつけなければならない」

 また、「わたしがいちばんよくきかれる質問」の章では、「そのアイディアはどこからとったのですか?」という小説作法についての質問に直接的に答えるのではなく、物語を「物語そのもの」に語らせねばならない、という作家としての態度を書いています。これはまるで、言葉でのすみやかなコミュニケーションをとることが難しかったイシに対する、父の態度について書いているかのように読めるのです。

「まず、待つことができなければいけません。黙って待つのです。黙って待って、耳を澄まします。歌を、ヴィジョンを、物語を求めて耳を澄ますのです。あわててとびついたり、押したりせず、ただ待って、耳を澄ませ、それが来たときにつかまえられるよう準備するのです。これは信じるという行為です。自分自身を信じ、世界を信じるのです」

 エッセイの文章の向こう側に見えるル=グウィンの態度は、ユーモアをたたえながらも、ある種の潔癖さ、厳格さ、を強く感じさせます。「ゲド戦記」の物語にただよう倫理のようなもの、そして父・アルフレッドが寡黙に貫いた人生の態度につらなるものが、この本にははっきりと読み取れる。そう思えてならないのです。
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