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佐野洋子『覚えていない』(マガジンハウス)

 本に書いてあることを「このように面白いですよ」と他人に説明していられない気持ちになる本がたまにあります。この佐野洋子さんの本が、それでした。たとえば名人の最高の出来の落語を聞いた帰り道、その面白さを丁寧に語る気持ちになるか、といえば、それは難しい。「いやあ面白かったねえ」と、唸るように呟くのがせいいっぱい。圧倒的な演奏をくりひろげたピアノ・トリオのライブを聴き終わった途端、こと細かに批評を始める人が隣にいたとしたら、それは職業的な必要に迫られた音楽評論家か、音楽を聴いても実はそれほど気持ちが沸き立たない知能指数の高い人か、のいずれかではないでしょうか。人はあまりにも感動すると、追いつく言葉もなく呆気にとられ、無口になります。

『覚えていない』は、著者が50代の頃、雑誌や新聞に書いたエッセイを集めたもの。本の成立事情にふれている「あとがき」が読ませます。担当編集者とのこんなやりとりが登場します。以下、引用です。

 
 マガジンハウスの刈谷さんが、ある日ドサッとゲラ状のものを持って来てくれた。
「何これ」「何を言っているんですか、これは佐野さんのエッセイです」「いつの」「あなたの五十代位の時のものです」「えー、もう私六十八だよ、どこにあったの」「何言っているんです。僕が、全部ちゃんと切り抜いて集めておいたんです」(中略)
 刈谷さんはゲラっぽいものを置いていった。目を通して二枚目で私は血の汗が出る程恥しかった。五十代は若いのである。青いと言ってもいい。こんな事を書き散らしていたかと思うと恥しくて死にたくなった。同じ自分かと思う。私は六十八のバアさんになって少しは気持もなだらかに、考えることもおだやかに、文章も滋味あふれ、人格も向上しているのではないだろうか。うん、そうにきまっている。私は三枚目を読めなかった。こんなもの人の目にさらしてはいけない。
 電話した。「私、恥しくって、出せない」「何を言ってるんですか。そんな事言ったら佐野さんのはいつも恥しいでしょう。古いの読み返してごらんなさい」「読み返したら生きていられないから読まないよ。それに、あれバブルの時代で中身が古いと思うよ」

 最後のセリフは、佐野洋子さんが言いたいことをスッパリと言う人に見えて、実は他人を慮る心根のやさしさも持ち合わせた人なのだとわかって可笑しい。断じて拒否、という人じゃないことがにじみ出ています。それはさておき、『覚えていない』には、表題作となるエッセイも収録されているのですが、本としてのタイトルの由来は、収録されることとなったエッセイについて、そして当時出会った身辺の出来事について、ほとんど何も「覚えていない」ということにあるようです。昔「記憶にありません」というセリフが国会の周辺で便利な言葉としてふわふわと漂ったことがありましたが、「覚えていない」にはゆるぎない主体があって実に堂々としている。

 本書を読み進める気持ちを、突然ながら野球でたとえれば、ランナーがいないと思っていたらいきなり本盗されたキャッチャーのような気分とでも言えばいいでしょうか。いきなりやられてしまう。しかも本塁にはすでに手が届いていてなすすべもない。あるいは佐野洋子という豪腕投手からつぎつぎに繰り出される言葉の球の、スピードと威力、きわどいコースを狙ってぶんぶん胸元をかすめてくる速球に、手も足も出ない感じ。ただ口をあけて見送るか、あまりの剛速球に笑い出してしまうか。

 まあとにかく読んでいただくしかないのですが、本書の8割がたは人類の永遠のテーマである男女の問題が絡んでいる、と言っていいでしょう。ぐいぐいと読ませる秘密はこのあたりにもある。そして、かつて免疫学者の多田富雄さんが男女の違いについて表現した名文句を、本書はまったく反対側の角度から、きわめて具体的に、可笑しく、哀しく、いとおしく書いているのではないか。多田富雄さんはこう書きました。「女は存在だが、男は現象にすぎない」
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