自伝、評伝、日記のなかから、「これぞ!」という一冊を選んでいただけませんか? というお願いに11人の方々が答えてくださったのが「この一冊」という企画です。今回は、登場してくださった方々と、選ばれた本、そして本についての原稿から一部を引用してご紹介しましょう。

高見順『敗戦日記』

……………(選んだ人)荒川洋治

「活字が、ぴちぴち音を立てる。新鮮だった。作家の日常だから、人の名前もたくさん出る。地方の高校生には縁遠いはずだが、文学、文化への興味とあこがれがあり、自分でも不思議なほどするする読めた」

シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』

……………(選んだ人)養老孟司

「石油が動かしてきた世界は千年変わらない世界だと無意識に思っていたのに今はそれが崩壊する過程のなかにいる。『昨日の世界』は非常に予告的なところも含んでいます。世界は永遠に続くと思っている人は、読んでおいたほうがいいと思いますね」

フラナリー・オコナー『存在することの習慣』

……………(選んだ人)小池昌代

「私たちはオコナーが難病を持ち、死が常に目前にあったことを知っている。けれど書簡集のなかの彼女は、自分の杖を──これは比喩だが──まるで小荷物のように網棚の上に載せて忘れる(そのふりをする)。そうした態度によって、私たちもその杖の存在を忘れ、手紙のなかの、他者へと懸命に働きかけるパワフルでシリアスな精神に、ただただ、目を奪われてしまうことになる」

イサク・ディネセン『アフリカの日々』

……………(選んだ人)横山貞子

「この作品には愚痴や苦労話が出てこない。実際にあった、夫から梅毒をうつされたことも、彼との離婚も、金策に駈けまわったことも、農園に巨額な投資をした親族たちの苦情についても、まったく触れない。これは過去の美化ではなく、むしろ抑制の結果ではないか。書かなかったことが書いたことに深みをあたえる場合もある」

堀田善衛『ゴヤ』四部作

……………(選んだ人)千葉成夫

「巨人ゴヤを、我が堀田善衛はまるごと捉えることに成功している。その理由は、人間と作品の両方に等分の目配りが利いているからである。文学者の美術論は往々にして人間論に終始しがちであり、美術史家は人間論には踏み込まないのが普通だし、踏み込んでも詳しい年表以上のものにはまずならない。堀田のゴヤ論はそのバランスが見事である」

 

中野好夫『蘆花徳冨健次郎』

……………(選んだ人)武藤康史

「中野好夫の『蘆花徳冨健次郎』はびっくりするような文体で書かれている。
 パワフルで、こまやか。
 悠然としていて、かつリズミカル。
 中野好夫の文章はほとんど常に読む者を掴んで離さないが(翻訳もそうだ)、徳冨蘆花のように書くのに少々面倒な人物を相手にして、ますます勢いがいい」

 

アイザック・ドイッチャー『武装せる予言者・トロツキー』『武力なき予言者・トロツキー』『追放された予言者・トロツキー』

……………(選んだ人)水野忠夫

「かつて、トロツキーの全体像を総体として理解しようと求めていた私の希望をみたしてくれたのが本書であったが、四十年以上の歳月を経て読み返したいまも、新鮮で、輝きを失っていないことを知ったのは喜ばしい。時間の検証に耐えた名著というべきであろう」

 

獅子文六『娘と私』

……………(選んだ人)鹿島茂

「子供のためのオモチャ(自己愛の道具)と化した文学を大人の手に取り戻し、含羞と西欧的教養とを兼ね備えた大人たち、いいかえれば、かつての『山の手住人』たちが愛したようなウェル・メイドの文学を育てていくには、獅子文六はもう一度読み返され、正当な評価を与えられなくてはならない」

 

山下恒夫『石井研堂』

……………(選んだ人)坪内祐三

「山下恒夫は、この評伝を書くに当って、文章資料だけでなく、関係者の談話も引いている。
 この本の『後書き』で山下恒夫は、『最大の幸運は、研堂のご子息石井寿郎氏が大変な高齢(お会いした時が八十三歳)にもかかわらず、文京区本郷の地に、すこぶるつきの元気でおられたことだった』、と書いている。
 そう、『石井研堂』はギリギリで間に合ったノンフィクション文学の傑作だ」

 

『ミルン自伝 今からでは遅すぎる』

……………(選んだ人)大井玄

「私は中学一年のとき、友人に『クマのプーさん』を借りたが、読むのが待ち遠しくて二キロほどの雪道をはしり、途中で何度か転びながら家に帰った。そんな読者にとって、ミルンの生い立ちや文学作法などの背景が、気にならないはずはない」

 

『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』

……………(選んだ人)若島正

「伝記や自伝、さらには日記に書簡集といった類のものを読むおもしろさのひとつは、読者の俗っぽい覗き趣味を満足させてくれるところだろう。ふだんは作品のむこうに隠れている作家が、等身大の実物として目の前に現れたような錯覚を読者はおぼえる。作家の実人生を疑似体験したような気分になれる。
 ところが、ウラジーミル・ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』は、おそらくそのような意味での読者の欲望を満たしてくれない。その代わりに、ほとんどナボコフの小説のように読める。いやもう少し正確に言えば、ナボコフの小説を読むために必要な基本的姿勢というものが、そこで明らかにされているという印象を受ける」