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ベン・シャーン絵  アーサー・ビナード構成・文
『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)

 これは、アメリカの水爆実験で被爆した日本のマグロ漁船、第五福竜丸の物語を描いた絵本です。1898年リトアニア生まれ、小学生の頃にアメリカに移住した画家ベン・シャーンは、1950年代から60年代にかけて日本の美術の世界に大きな影響を与えました。本書の装丁・デザインを担当しているのは、その影響を受けたひとりで、ベン・シャーンについては特別な思い入れがある和田誠さん。そして、アメリカ生まれで今は日本に住み、日本語で詩を書くアーサー・ビナードさんが構成と文を担当しています。

 ベン・シャーンは19世紀末に生まれた芸術家です。しかし残された仕事を並べれば、そこにはありありと20世紀そのものが浮かび上がってくる。それが現れているのは力強い筆づかいによる画風そのもののためであることは間違いありませんが、独特のふるえがありながら、ためらいのない力強い線で構成された画面は、出来事の核心にあるものを見すえる鋭い視線と社会への深い関心に支えられているのです。しかしそれは「告発」とはあきらかに一線を画すもの。「告発」には瞬発力はありますが、しかし「告発」は時間の経過によって輪郭がぼやけ、やがて忘れられてゆく質のものです。ベン・シャーンのものごとへの関心は、人間への愛情とイコールであり、その絵に描かれている世界は永遠に生きのびてゆくものなのです。

 小学生でニューヨーク・ブルックリンに移住し、貧しい暮らしを送りながら、おそらくユダヤ系移民としての差別も受け、少年時代のベン・シャーンはさまざまな見えない手に頭をぐいぐいと押さえつけられながら、無言のうちに深いところへと届く視線を育てていったのでしょう。大工だった父親ゆずりの器用さと周囲も目を見張る絵心の持ち主だったこともあり、ベン・シャーンは中学を卒業と同時にマンハッタンのリトグラフ工房で石版工の見習いとして働き始めます。石に彫る、という画法が、ベン・シャーンの独特の線を生んだのです。

 美術学校でさらに絵画を学び、30歳の頃には1年間チュニジアに滞在、パリでは現代美術を目の当たりにして、ベン・シャーンはこう言います。「観るべき絵はだいたい観たし、読むべき本もひととおり読んだはず……でもそれがどうしたというのだ。俺は大工の息子で、もう三十路をすぎた。好きなものはといえば、物語と人間」(『ここが家だ』巻末のアーサー・ビナード氏による解説文より)。

 以降のベン・シャーンが絵画の題材にどんなものを選んでいったのかは巻末のアーサー・ビナードさんの解説を読んでいただきたいと思いますが、ひとつの太い道筋として見えてくるのは、ベン・シャーンは、大きな力に抑圧されようとする人間の姿をしばしば題材に取り上げていったということです。それは、自分がどのように育ってきたのかを、そこから見えてきたものは何だったのかを、絵画を通してもう一度光を当てようとする真摯な行いだったのではないか。単に「社会的な事件」を時流の上にのって描き出したのではなく、それは、かたちをかえた自画像だったのです。

 1954年3月1日、太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験に遭遇し、乗組員たちが被爆した第五福竜丸の事件は、アメリカにとってはできれば蓋をしてしまいたい偶発的な出来事だったにちがいありません。しかし、そのアメリカに住み、事件を知ったベン・シャーンは、大きく揺さぶられ、やがてラッキードラゴン(つまり「福竜」)シリーズとしてこの事件を題材にした連作の絵画を制作し始めます。

 この絵本はしかし、ベン・シャーンの存命中からもともと作られていたものではありません。ラッキードラゴンの連作をもとにして、日本の編集者が絵本にしたらどうかという発想を得て、その依頼を受けたアーサー・ビナードさんが構成と文を考えた日本のオリジナルの絵本なのです。このようなかたちにまとめあげたアイディアとそのクオリティの高さには脱帽せざるを得ません。ベン・シャーンが残した仕事はこうして、彼の関心事であった「物語と人間」という縦糸と横糸によって編みあげられ、二度とばらばらになることのない永遠の名作として姿を現すことになったのです。ベン・シャーンのこころのふるえと祈りが、約半世紀を経てここによみがえったことを祝福したいと思います。
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