Kangaeruhito HTML Mail Magazine 208
 紙の運命

 人を待っているあいだに、図書館の棚にある子ども向けの古い文学全集に手が伸びました。つるつるとした表紙カバーと、ほっこりした手触りの本文紙。子どもの本はこうでなきゃという懐かしい感触。ぱらぱらとページをめくっているといい匂いがする。なぜ子どもの本はこういう独特の匂いがするんだろう。私は子どもの頃から「本の匂いはいい匂い」と思っていました。読んでいる本に顔を近づけては、何かを確かめるように匂いをかいだものです。自分が編集者になって何冊も本をつくっていますが、出来上がってきた本で子どものころと同じような匂いがするものは、残念ながら一冊もありません。インクや紙が違うせいなのでしょうか。

 子ども向けの文学全集は、活字が大きめでゆったりした二段組み。難しい漢字や言葉にはきちんとルビや注がついていて、浅薄な大人にもありがたいつくり。待ち時間にちょうどいいだろうと思い、読み始めたのは森鴎外の巻におさめられている「高瀬舟」です。三十年ぶりぐらいで読み直して、森鴎外の文章が意外に軟らかくのびやかで、一字一句ゆるがせにしない構えでもないことに少しおどろきました。昔読んだときには息苦しさを覚えた気がするのに、なんだか不思議です。「高瀬舟」を読み終えると、そのタイミングに合わせたように待ち人が現れたので、本を棚に戻しました。

 それからだいぶ時間が経つのですが、どうにもあの本のことが忘れられない。もう一回、ぱらぱらと眺めてみたい気持ちがつのります。忘れられない理由を考えると、やっぱり本文紙の手触りと本全体がかもしだす独特の雰囲気のせいなのではないか。本を読むことに潜む孤独な幸せ。子ども時代、毎週土曜日の読書の時間に学校の図書館から一冊ずつ借りて読んだ本の記憶が、しっかりと刷り込まれ、その感覚から抜け出せずにいるのです。

 酸性雨ならぬ酸性紙が問題になり始めたのは今から二十~三十年ぐらい前でしょうか? 印刷の適性を高めるために施された硫酸アルミニウムが結果的に紙の繊維を傷め、紙の寿命を縮めることが判明し、酸性紙は徐々に姿を消して現在は中性紙にバトンタッチされています。そもそも酸性紙が登場するようになったのは、イギリスの産業革命以降に紙が大量生産されるようになった19世紀の半ばからだそうです。しかし、紙を大量生産できるようになったことによって、20世紀の文学、ジャーナリズム、教育……など様々な人間のいとなみに与えた影響の大きさを考えると、酸性紙の功罪を「罪」ばかりで責めるわけにはいかない気もしてきます。

 そう思ってみると、自分がくんくんと好んで匂いをかいでいたのは酸性紙の本だったのかもしれません。ということはつまりこれから百年もすれば、子どもの頃に夢中になって読んだ懐かしい本たちは、片っ端からぼろぼろの屑となってゆき、やがて消えてしまう運命にあるのでしょうか。

 IT革命のまっただ中にいて、ペーパーレス時代は目と鼻の先に来ているという考え方もあります。生きながらえるはずだった中性紙の本も、もはや不要なものになりつつあるのかもしれません。音楽はすでにダウンロードで楽しむようになっていて、二十年前には画期的と思われた、「つい先日」発明されたCDですら古めかしく思う世代が日々少しずつ増えてゆき、やがて多数派になっていくのでしょう。そのいっぽうで、昔のLP時代のジャケットを懐かしんでつくられる紙ジャケット入りのCDも最近はよく目につくようになりました。LPのミニチュアのような紙ジャケットも、昔の感触を懐かしむ人が考え出した「本のようなもの」なのかもしれません。

 しかし本という形態はかならず残る、と私はみています。ある種の「嗜好品」的な位置づけに追いやられることがあったとしても、本は残る。コンピュータには毎日お世話になっている私ではありますが、そしてこのメールマガジンはインターネットで配信されるデータであったりもするのですが、それでもやはり、本を手にしたときの感触、ぱらぱらとめくる感じ、紙に印字された文字の並びぐあい、そしてほのかに漂ってくる本の匂いとともにある読書体験から、少なくとも私自身は生涯離れることができそうにありません。

 そういう意味において、こういう時代だからこそ、もっと紙のこと、本づくりのことを、編集者は、そして装幀家は、いっそう深く丁寧に考えて取り組んだほうがいい、と思うのです。小学生の頃、毎週つぎの本を借りることを心待ちにしていた読書の習慣は、活字によって描かれた世界の魅力によってだけではなく、本というかたち、感触そのものに、理屈ではなく強く惹かれたことでかたちづくられたのではないかと感じるからです。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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