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南直哉『老師と少年』(新潮社)

 人によっては、本書を読み始めたとき、少し「青臭い」と感じる人がいるかもしれません。たとえば、毎日こなしきれないほどの仕事を抱えている会社員だったら、数ページ読んだところで、「オレはさ、この手の悩みは卒業したんだよ」とうそぶく人がいてもおかしくはありません。根源的な問いを抱き続けていたら、日常や社会生活をいとなむのにブレーキがかかってしまうからです。

 しかし「青臭い」ものには主張があり、その前をただ通りすぎるわけにはいかないような、異和感が漂います。「少年」ならぬ「大人」にとって、これはそういう種類の本なのかもしれません。思い詰めた表情の少年が、目の前に立っている。しかしどうすることもできない。見て見ぬふりをする。つまり言い方を変えれば、この本は「大人になってから読むのでは遅い」のです。それでは、わたしたちにとって本書は、不要なものなのでしょうか。

 本書に登場する少年が抱く疑問は、「自分」とは誰なのか、自殺は許されるのか、神とは何か、といった問題です。近代以降の人間が、それらの問いに対して無条件に信じることのできる「正解」を失って、あてどない自意識とともに漂うようになったとき、わたしたちはこのような根源的な問いとつねに隣り合わせの人生を歩むようになったのです。対話者である老師は、その問いに「正解」を差し出すのではなく、その問いをさらに育て、生涯にわたって問い続けられるものになるように、少年の疑問の輪郭を、少年自身にしっかりと見つめさせようとします。

 著者は禅僧ですが、西洋哲学の長いトンネルも一度ならずくぐり抜けてきた様子がうかがえます。しかし本書には哲学用語も、哲学者の名前もいっさい出てくることはありません。西洋哲学が掲げてきた問いを、本書はひととおりおさらいし、少年の疑問のかたちにして再提出もしているのです。そしてもちろん、仏教にふくまれる非西洋的な問いの本質が、老師の枯れた声の向こうに、透けて見えてもくる。

 自意識が育ち、からだも刻々と、しかも劇的に、大きな変化をとげる中学校一年生ぐらいから、大学受験に直面する高校三年生ぐらいまでの男子であれば、本書に書かれてある言葉は、乾いた地面に吸い込まれる水のように、しみこんでいくでしょう。少なくともその当時の私なら、二度、三度と繰り返しこの本を開き、読み返したはず、と思います。

『老師と少年』という魅力的なタイトルにふくまれる「少年」は、たまたま「少年」なのかどうか。人生に対する問いのかたちは、男女で異なったとしてもおかしくはないはずです。『老師と少女』という本であったならば、問いの設定や対話の進め方が少しちがってくるのではないか、と思わせるものが本書にはあります。それは著者が元「少年」であり、著者が少年時代に、これが解けなければもう一歩も前へ進めない思いで抱いていたであろう問いを、他人ごとではなくもう一度問い直しているからでしょう。

 老師と少年の七日間に及ぶ対話の、最後の一日。青臭いと感じながら読み始めた人でも、この七日目にまで至るうちに、老師のひとつひとつの言葉に、身を乗り出すように聞き入る自分を見つけるはずです。「生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ」「この世にはしなければならないことがたくさんある。しなければならないと人が思うのは、しなくてもいいことだから」──老師の言葉は、毎日こなしきれない仕事を抱えている会社員にも深くひびいてきます。青臭い問いであればあるほど、日常をあたらしくする可能性がある。わたしたちはそのことに気づくのです。

 本書は、できれば少年のうちに、そしてもし分別くさい大人になってしまった後であれば、自分のなかに残されたまま問われることをやめてしまった「少年の問い」を確認するために、ゆっくりと深呼吸をするようにして読むことをおすすめしたいと思います。
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