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橋本治『このストレスフルな社会!
ああでもなくこうでもなく5』
(マドラ出版)

「年末進行」とか「大掃除」とかいう慌ただしい空気のなかで、この真っ黒けな本を読み始めたら、もう止まりませんでした。考えてみればシリーズ5冊目で、1冊が出るたびごとに、読み始めたら止まらない本であったことを思い出しました。4冊目が出たのは今から2年半ほど前。本書は「広告批評」に連載されている橋本治氏の時評の2004年の春から2006年の秋までを単行本化したものです。2年以上にわたる連載を、まとめて一気に読む異様なほどのスピード感は、時評という性質ならではのものなのか。どうもそうとは言い切れない気がします。

 なんで読み始めたら止まらないかと言えば、それは「本気で書かれている本だから」です。「世界」に起こってしまったこと、起こりつつあることを、「異様な集中力で凝視し」(本書「あとがき」より)、そこから見えてくるものを気を抜かず、後戻りはしない一筆書きの筆勢で本気で書き通している。本気とは言っても、興奮してテンションが高くなっているのではない。ご本人が本書のなかで書いているとおり、怒れば怒るほどしんしんと冷静になっていく、そういう質の人が少なからぬ怒りや戸惑いや呆れ果てた感情を抱きながら本気を出して書いたら、どれほどおそろしく明晰なものになってしまうかわかろうというものです。

 勝ち組負け組、環境問題、中越地震、ライブドア問題、クールビズ、小泉解散、杉村太蔵、階層社会、皇位継承問題……締め切り間際に起こったことであっても、次号に先送りせず、ぎりぎりでもそのことを書いてしまう。コラムニストが世の中の空気を読み取った上で、安全圏のなかで気の利いた言葉を選びながら論じてゆくというような姿勢ではなく、たった今の世の中を騒がせていることを真正面から注視する。それぞれどう論じられているか、ここで手短に伝えようとしてもあまり意味がないように思えます。人が本気で話していたことを、手短につたえることほど、誤解を与えることはないからです。

 そして私が何より心をゆさぶられたのは、ここに「橋本治」という生身の人間が、露悪的でも卑下するでもなく、そのままあらわれていることでした。どんな組織にも属することなく、なんの保証もなく「筆一本」で生きていくとはどういうことなのか。世の中のことを書きながら、そのことも同時に書かれているのです。

 中越地震について触れている回で、橋本治氏はこう書いています。長くなりますが、この部分を引用することで、今年の最後の「考える本棚」を締めくくりたいと思います。本年もご愛読ありがとうございました。

 
 年を取ると、ほんとに疲れる。私なんか、夏の暑さにやられて、九月十月と息も絶え絶えになっている。息も絶え絶えのくせに、働き続けている。「本なんてもう、半分以上役目を終えたメディアだな」ということは重々分かっていて、でも、「生きている限り、本というメディアを終わらせることに加担は出来ない」と思っている。「この先、もう手書きの原稿を書く作家なんか出て来ないかもしんないなァ」と思いながら、「この世から原稿用紙がなくなるのと、俺が死ぬのと、どっちが先だ」くらいに考えている。そういう私の頭の中は、「後継者を持たない過疎の山奥の農業老人」とたいして変わらないから、地震の被害に遭って体育館で寝ている高齢者の姿を見たりすると、すごく落ち込む──という状況が個人的には続いていて、相変わらずヘトヘトに疲れ切ってはいるのだけれど、しかし、被災の老人は、元気なのだ。自分より遙かに高齢の被災者が「頑張ろうと思ってます」なんて言うのを見ると、「なぜだ?」と思う。思うがしかし、分からないわけではない。生産手段と共に生きている人間は、強いのだ。
 雇われ型の人間は、すぐに落ち込む。しかし、自分で物を作り出す人間は、そう簡単に落ち込めない。目の前に「物を作り出すための手段」があって、自分がそれに取りかからない限りどうにもならないということが分かっていたら、たとえどんなに利幅が薄いと分かっていても、やらずにはいられないのだ。最低限、「自分がカツカツ生きていられればいいか」と思って、黙々と、やるべきことをやってしまう(私の場合はかなり文句を言いながらだが)。そこのところが、企業型人間とは、全然違う。「それで、日本人は長い間、なにがあっても生きて来たんだな」と思う。(「275 絶望するのはまだ早い」より)
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