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村上春樹『若い読者のための短編小説案内』
(文春文庫)

 村上春樹さんには、まずは長篇作家というイメージがあります。そしてご本人もかつて「僕は自分のことを生まれつきの長編小説作家だと思っている」と書いたことがあります。異論の余地はありません。では、短篇小説が「長編作家・村上春樹」にとって単なる「おまけ」のようなものなのかと言えば、もちろんそのようなことはありません。第一短篇集『中国行きのスロウ・ボート』から始まった村上さんの短篇の仕事は、それだけを取り出してみても、いくつもの忘れがたい刻印をわたしたちの読書体験に残しています。

 比較的近年に刊行された短篇集のなかで、村上作品が新たな世界へと踏み出したのは『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)だったのではないでしょうか。ここに描かれている世界はまぎれもない村上的世界であるものの、どこかが明らかに変化している。たとえば、『レキシントンの幽霊』の頃はまだ一人称のスタイルで書かれたものが中心だったのに、『神の子どもたちはみな踊る』では三人称の世界へと転換しています。大きな嵐が通り過ぎた後のような妙な静けさが小説のなかに満ちていることも気になります。

 ご本人が明らかにしているとおり、『神の子どもたちはみな踊る』におさめられた短篇執筆の動機には、1995年の阪神淡路大震災という大きな背景があります。直接的に震災の被害を描いているのではありません。しかし、目に見えないかたちで、その余波が登場人物たちの足もとにひたひたと押し寄せてくる。その気配はときに息苦しくなるほど短篇の内圧を高めています。

 そして阪神淡路大震災と同じ年に起こった出来事がありました。オウム真理教による地下鉄サリン事件です。村上さんは、事件と教団を題材としたふたつのノンフィクション『アンダーグラウンド』『約束された場所で』を、長い時間をかけた取材ののちに発表しています。おそらくはそれまでの小説家として使ってきた「筋肉」とは別の部分も駆使しなければできなかった仕事であり、またそれぞれの取材対象となる第三者の存在がなければ成立しなかったこれらの仕事が、小説家村上春樹に少なからぬ影響を残さないはずはありません。『神の子どもたちはみな踊る』が三人称の短篇小説となったことに、なにがしかの道筋をつけた可能性もあるでしょう。

 そしてもうひとつ、『神の子どもたちはみな踊る』が発表される前の本書『若い読者のための短編小説案内』も、村上作品の短篇世界を変貌させる、ひとつの力を与えたのではないかと想像するのです。村上さんがプリンストン大学に招聘され、しばらくアメリカに滞在することになった折に、学生たちと一緒に日本の小説を読み議論する、というクラスを持つことになった経験(のちにタフツ大学でも同様のクラスが持たれたようです)が、帰国後に本書を執筆することになる契機となっています。そこで取り上げられたのが、吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、丸谷才一、長谷川四郎などの作家による短篇小説でした。

 村上春樹さんは小説の読み手として、実におそるべき目を持っています。それぞれの短篇をひとつひとつ丁寧に「腑分け」しながら、小説というものが書き手の内面や企みを、いかに明らかにするかを明晰に論じているところなど、唸らされるくだりが次々と出てきます。そして本書を読み終えたとき、短篇小説にはその作家の原型がありありと現れる、という動かしがたい原理に深く納得させられることになります。小説と作家の関係をこれほどスリリングに伝える本はありません。その意味でも、村上春樹という作家の知られざる内面の声が聞こえてくる、これはきわめて珍しい本なのです。

 短篇小説は「おまけ」では済まされない「おそろしいもの」なんですね。
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