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ブルーノ・ムナーリ作 須賀敦子・訳『木をかこう』
(至光社)

 昨日は外出するときにマフラーをしませんでした。先週ぐらいからシジュウカラが春のさえずりを始めています。いちばん寒いときに着るオーバーコートも今年は出さずじまいで終わりそうな気配。東京は初雪の観測もないまま春一番が吹いてしまいました。でも、1月下旬のぐっと冷え込んだ日の午前中、東京でもちらちらと雪のちらついたことがあります。私はちょうどそのとき、世田谷区の路上を歩いていて、「あ、初雪だ」と思いました。しかし、気象庁の記録には残らない程度の雪だったようです。

 ケヤキやサクラ、イチョウなど落葉樹の、すっかり葉を落とした状態ともまもなくお別れです。裸になった木を見慣れるようになる冬のまっただなかでは、鬱蒼と生い茂る木をなかなか想像しないものですが、いったん芽をふき始め、5月の連休の頃に青々とした若葉が風にゆれている姿を見ていると、今度は葉を落とした冬の木の状態をつい忘れてしまいがちです。

 ひとは落葉樹のようには季節ごとの変化はみせませんが、実は季節のうつりかわりと歩調をあわせて、こころやからだの入れ替えが行われているのではないか、と思うことがあります。「木の芽どき」という言葉がありますが、それはやはり本当にあるに違いないと感じます。何しろ、私たちが自然とともに生きてきた長い歴史を考えれば、私たちのこころとからだが季節に影響を受けないはずがないのです。私たちはそれを忘れているのにすぎない。そう思います。

 手をつけないまま、いたずらに積み上げていた未決の仕事にいっせいに黄色信号がともり始め、それが赤信号に変わるであろう「木の芽どき」に、自分がそれらをぜんぶ放り出してしまう場面を、自分の車を運転して帰宅する深夜の路上で思い描いたりしながら、ぶるぶると身震いしたのが昨日のことでした。仕事をいっぱい持ち帰ってきても、風呂に入って出てきたらすでに1時すぎ。夕刊を読む気にもならず、自分の部屋の書棚から取り出して、久しぶりに読み返したのがこの本でした。

 木、それも葉を落とした後の木を見上げて、こんなことを考え、こんな見事な絵本をつくる人がいる、ということにあらためて驚きを覚えました。「まあまあゆっくりしなよ。木はそんなこわいものじゃない。面白いものなんだから」とポンと肩を叩かれたような思いがしました。

 グラフィック・デザイナーという肩書きにはおさまらない、「かたち」と「人間」をつなぐ名人であった本書の作者、ブルーノ・ムナーリは、本書のなかでこう書いています。

「むかし、フィレンツェのいなかに、
 ぼくのともだちがいました。レオナルドという名のひとで、
 ヴィンチ村という村(郵便番号 50059)に住んでいました。
 上の絵は、そのともだちがかいたものです。
 枝は、どんなふうにしげるか、レオナルドは、
 じっと観察して、木の規則について考えました。
 また、ヘリコプターを発明したり、
 水を自由に畑にひいたり、
 モナ・リザという有名な絵をかいたりしました。」

 ここに、本書の魅力の源泉がさりげなく示されています。「木はどのようにして木として成り立っているのか」。「枝はどのように枝分かれして育っていくのか」。植物学者がブルーノ・ムナーリの観察とその考え方についてどう思うのかはぜひ聞いてみたい気がしますが、しかし「おおむねそのとおりですよ」と言われるにちがいない説得力が本書には溢れています。レオナルド・ダ・ヴィンチが絵を描くために人体の解剖をし、観察をしたように、ブルーノ・ムナーリは木をみごとに解剖している。そして、そのことを子どもにもわかるように絵で説明し、しかも最後のほうでは紙を使って、はりがねを使って、木のモデルを作るところまで私たちを案内してくれるのです。

『木をかこう』は、ものの見方、考え方、とはどういうものなのか、という原理を木を題材にして伝える本でもあるのです。すっかり煮詰まって、パンパンになっていた頭に、ブルーノ・ムナーリの本からいい薫りのする風が吹いてきたようでした。まずは落ち着いて、それからじっくり見つめて、解きほぐすように考える。そして、ひとつひとつ片付けていけば大丈夫。今朝めざめた私の気持ちまで、すっかり入れ替わるような本に、くたびれはてていた昨晩、自分の手が伸びたのが不思議です。
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