Kangaeruhito HTML Mail Magazine 224
 

小平邦彦『ボクは算数しか出来なかった』
(岩波現代文庫)

「赤ん坊の揺り籃は深淵の上で揺れているのだ。だれもが知っているように、私たちの一生は二つの無限の闇の境を走っている一条の光線にすぎない。ただ、二つの闇はまったく同じものだが、私たちは(毎時およそ四千五百回の鼓動数で)いまめざしている闇よりも誕生前の闇の方が安心して眺められるらしいのである」

 これは『ナボコフ自伝』(大津栄一郎訳 晶文社)の冒頭です。自伝には数々の名著がありますが、私にとって『ナボコフ自伝』はそのひとつです。何度読み返してもそのたびに新鮮で、飽きることがないのは、この文章のすばらしさによるものだと思います。いっぽう、今回取り上げる本書の冒頭はこうです。

「私の父は明治十八年に長野県の米沢村で、母は同二十七年に上諏訪町で生まれた。両親とも長野県人である。そのためか、私はなんとなく長野県人ということになっていて、一昨年出版された『日本の数学一〇〇年史』でも私が長野県で生まれたことになっているが、実際は、私は大正四年三月に東京で生まれた東京人である」

 とくにどうということのない文章、かもしれません。しかし、読み進めるにしたがって、この素っ気ない文章に含まれるものが──あるいは、この素っ気ない文章で表現されてゆくものが──ただものではない、とわかってくるのです。

 小平邦彦さんは数学における世界的な権威のある賞、フィールズ賞を日本人で初めて受賞した数学者です。幼年時代、少年時代、青年時代、そして数学者となってゆくまでのエピソードと、折々に抱いたであろう感慨、内面的な心の動きを、ナボコフばりの文体で追ってゆけば、分厚い重厚な自伝になってもおかしくない人生を送ってきたはずです。しかし小平さんは、些末なことにはこだわらず、きわめて軽快に、さばさばと自分の人生をふり返ってゆく。この「さばさば」さ加減が実にすばらしいのです。

 たとえば二・二六事件のとき、東京大学数学科の一年生だった小平さんは、当時のことをこのようにふり返ります。

「各学年十五名と少人数であったから、私達一年生はじきに親しくなった。末綱先生の代数の試験の日に二・二六事件が起こって試験が中止になったので、私達はうれしくなって上野の動物園に行った」

 早とちりする人によっては、「なんだ。やっぱり数学者は世間知らずで、世の中の動きに無関心なんだな」と思う人もいるかもしれません。しかし、一九六八年の東大紛争の頃(小平さんはこの前年に、スタンフォード大学を辞して、母校の東大に戻っています)の思い出を、このようにきっぱりと記述しています。

「翌四十三年の夏に東大紛争がはじまった。それがまるで流感のように日本全国に広がった。不可思議な現象で、私には理解できなかった。しばしば団交が行われて、教授達が学生に専門バカと罵倒された。
 ある日、紛争に対する理学部の意見をまとめるからめいめい意見を書け、という回覧板が回って来たので、私は『専門バカでないものは唯のバカである』と書いて出した。そうしたら、この句がそのまま理学部の意見の中に採用されて有名になった」

 引用し始めたらキリがないほど、このような痛快な断定が何度となく現れます。そして、その断定は無知や偏見による一方的なものではなく、おそるべき洞察力、観察力に支えられたものであることは明らかなのです。そしてユーモアもある。うじうじと判断を引き延ばしたり、保身のために敢えて「何を言っているのかわからない」曖昧な態度をとったりはしない。潔い態度とはこのようなものである、というわかりやすい見本が、小平さんの人生なのです。

 研究者といえば、今はやりの最先端のもの、世の中の役に立つもの、を見いだす役割として捉えられがちですが、小平さんの姿勢はそのようなところからほど遠い場所にあります。小平さんが数学者として飛び抜けた業績を残した理由が見えてくる、本書のなかで静かに輝いている部分を引用しておきましょう。痛快でさばさばした態度の内側には、こんな粘り強い考え方と姿勢が潜んでもいるのです。

「われわれが数学を研究する場合も同様で、専門分野を一つ定めてその最先端の見通しのよい所で仕事をしていると、鮮やかな結果は出てくるけれども、あまり珍しい変わったことは出てこない。泥沼にもぐって何も見えない所を暗中模索で這い回っていると、思いもかけない珍しい結果が出てくる。新しい分野はこういうふうにして生まれるのではないかと思う」

 本書の魅力のもうひとつは、小平さんの音楽好きの部分です。自分でもピアノを弾き(これがかなりの腕なので驚きます)、アメリカで研究をしていた頃、グレン・グールドのコンサートにも行っている(グレン・グールドの演奏の様子から導き出した、その後の演奏会からの完全引退の理由を推理する部分は、おそらく他の誰も指摘したことのない、きわめて独創的なものです。ぜひお読みください)。音楽をめぐっての記述も実にたのしい。 

 小平さんが亡くなったのは一九九七年。単行本が刊行されたのは八七年。単行本のときに本書を読んでいたら、会いにいく口実を何かしら考えて、インタビューをすることもできたはずなのに、と悔やまれてなりません。
All right reserved (C) Copyright 2007 SHINCHOSHA