Kangaeruhito HTML Mail Magazine 232
 

前田富士男、宮下誠、いしいしんじ ほか
『パウル・クレー 絵画のたくらみ』(新潮社)

 あまり大きな声では言えませんが、美術館が苦手です。より正確に言うと、「人がいっぱい集まっている美術館」が苦手です。混んでいる美術館は、大きな絵を隅から隅まで見渡すこともままならず、じっくり見たいと思っても、まわりを人がぞろぞろと流れてゆく感じがうるさい。「絵を見る」という極めて個人的な体験が、端から崩されてゆく気がするのです。それでもなお、強い印象を残す絵が少なくありませんから、やっぱり見に来てよかった、と思うことも多々あり、要するに「ないものねだり」なんですね。

 パラパラと人がいるぐらいで、人と人の距離がたっぷりとあって、人の流れができていない美術館であれば理想的です。がらんとした美術館で、その一室には自分以外に誰もいない状況。そこでたまたま目にした絵に釘付けになることもあります。それほどの絵であれば、大混雑であろうがパラパラであろうが、状況によらず同じように「出会う」ことができるものなのかどうか。――シチュエーションはやっぱり大事、というのが私の説です。平日の夕刻や大雨の日の閉館30分前と、展覧会の最終日のさわやかに晴れた日曜の午後、しかも入場まで1時間待ち、という状況下では、絵の見え方がまったく同じだとはとても思えません。

 コンサートも同じです。楽章と楽章のあいだでいっせいに始まる咳払いとか、目の前の席の人のぐわんぐわんと船を漕ぐ居眠りとか、お化粧の匂いとか、演奏中もパンフレットばかりパラパラとめくっていていっこうにステージに目を向けない人とか、休憩時間にあやしげな批評をとくとくと述べはじめる人とか、あたりの空気がしんとしていればしているほど、人の気配が邪魔になってきます。そのうちに、あーなんとオレは神経質なんだろうと矛先が自分にも向かいはじめ、お腹が鳴ったらどうしようとか、むせたらどうしようとか、自分じたいが邪魔になってくる。ますますぐったりしてしまうのです。

 だから、画集で絵を見るほうがうれしい。CDで気儘に音楽を聴くほうが楽だ──ということになります。それも大判の重たくて立派な画集ではなくて、ポケットサイズのもので充分ですし、オーディオも「これ一台でCDが何百枚も買える」ような超高級、ハイエンドの機種でなくとも、小さなコンポーネント・ステレオで何の問題もありません。くだくだと文句ばかり並べましたが、ようするに絵や音楽と心おきなく一対一で向き合うことができるのであれば、私は満足なのです。

 吉行淳之介さんがパウル・クレーについて書いていた文章を読んで、それまで漫然と目にしていたクレーをなんとなく意識するようになったのはずいぶん昔のことでした。けれども、クレーがどんな人物で、どのような背景があってあのような絵を描いたのか、といったことについては深く興味を持ったことがなく、画集を買い求めたこともなく、きちんと──それこそ展覧会で──見たこともない。何となく好きな画家のひとり、というぐらいの存在でした。2005年の「芸術新潮」12月号でクレーの特集が組まれ、それを読んだり見たりしているうち、自分はクレーについて何も知らなかったとつくづく思い知らされました。人物じたいの魅力はもちろん、知らなかった素晴らしい絵もまだまだたくさんあって、ますます興味をそそられたのでした。

 本書はその特集をもとに、あらたに編集しなおされた「とんぼの本」です。雑誌サイズで大きくたっぷりと堪能したクレーの世界が、手のひらにのるコンパクトなサイズになって生まれ変わりました。そして、雑誌の特集の際には掲載されていなかった、本書巻頭のいしいしんじさんの文章に、いきなりぐいっと引き込まれたのです。絵を見るということがどういうことなのか、胸の奥深くにとどくようにして書かれている。大阪の展覧会で出会ったクレーの絵「オルフェウスの庭」をいしいさんがどう見ていたか、その個人的で内面的な経験を私たちはひとつひとつ編み針で編みすすめてゆくような言葉によって追体験するのです。そして、そのことが、芸術とはなんだろう、という核心にまでするりと着地してゆく。その一部を引用しておきましょう。

「絵は目に見えるものだから、視覚に関わると思われがちである。ただ、視覚とは、それだけ切り分けて、はいこれですと取り出せるような働きとはちがう。別の部屋にいる人の姿、死んでしまった肉親の顔、あるいは小説のなかの家や土地を思い浮かべるのは、目に見えていないものを浮かびあがらせる、内側の視覚の働きによる。聴覚や嗅覚も同じことで、目や鼻や耳などの器官は、物理的に、からだの外にいま、ある、と信じられているものだけを、感知するのではない。大阪にいる父の顔をいま浮かべてみると、同時に、腹の太い犬の鳴き声と、有名な豚饅頭の匂いが顔の前あたりを巡りだす。内側では、すべての感覚がひとかたまりになって、ちぢんだりふくらんだりしているかもしれない。人間の感覚は、自分たちが思いこんでいるよりよほど広かったり、思ってもみない方向へ開いたりしていて、そのことを、見あげるような驚きや、風が吹き通るような開放感とともに、気づかせてくれる出来事のことを芸術と呼ぶ」

 1879年に生まれたクレーは(同年生まれの人に、永井荷風とアインシュタインがいます)、7歳でヴァイオリンを習い始め、のちにヴァイオリニストになるか画家になるか悩むことになるほどの音楽好き。早熟で女性関係も華やか。戦争中はナチスに追われてドイツからスイスに亡命、その生涯にはさまざまな強弱のある風が吹き抜けてゆきました。そして、クレー独特の絵の世界は、どのようにして成り立っていったのか。ふたりの研究者による口語体のわかりやすい解説になるほどと思い、立ち止まることもしばしばです。しばらく手元においては見返す本になりそうです。
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