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池澤夏樹『きみのためのバラ』(新潮社)

 長篇小説は、長い旅に似ています。遠いところへちょっと覚悟を決めてでかけてゆく。行き先の風景はふだんとはだいぶ趣きが異なって、見聞きするものもめずらしく、思わぬアクシデントに出会ったりもする。旅から帰れば、顔つきも少し変わっているかもしれない。

 いっぽう短篇小説は、ちょっと近所にでかける感じ。ところが通いなれた路上に、何やら光るものが──。でかけたときと同じ顔でもどってはきたけれど、たしかに残っている、小さな感情のかたまり。魅力ある短篇小説は、鮮やかな、けれど人には伝えにくい記憶と、どこかしら似ています。

 ──以上は、特集「短篇小説を読もう」について触れた「次号予告」の冒頭です。そのようには書きましたが、短篇小説という広々と深いフィールドのなかでは、それぞれの作品は、色合いや匂い、速度、湿度がさまざまに変化する、とらえきれないほどの多様性に満ちています。いきなり異世界に連れて行かれる短篇もあれば、徹頭徹尾、一人称の悪態ばかり並んでいる短篇だってある。「構え」がさりげないのに、ふっと影のような何かがよぎるようなものを「短篇小説」のイメージとして書いたのは、つまりは好みの問題にすぎません。

 好みの短篇作家を選べと言われたら、パッと頭に思い浮かぶのは1912年生まれのジョン・チーヴァーでしょうか。アメリカの優れた短篇小説を、おそらくもっとも多く掲載してきた雑誌「ニューヨーカー」を主な発表舞台にしたチーヴァーは、1950年代以降のアメリカの、都市郊外に住む中産階級の家族を登場人物にしてきました。チーヴァーが亡くなる4年前には、数多く書かれた短篇のなかから60数篇を選んだ短篇小説集『The Stories of John Cheever』(1978年)が刊行され、ピューリッツァ賞と全米図書賞を受賞しています。アメリカ人の文学好き、読書好きでチーヴァーの短篇をひとつも読んだことのない人はまずいないのではないか、と思われるぐらいの、第二次世界大戦後のアメリカを代表する作家のひとりだと思います。

 そしてチーヴァーは、私たちが思い描く「現代の家族」というもののイメージの「原型」を発見した人でもあります。とりあえず物質的には恵まれていて、つつがない暮らしがあり、しかしそのように日差しの届く明るい場所であっても、ふとしたはずみでたちまち暗い影におおわれてしまう可能性も秘めている。あるいは、予想もしなかった遭遇によって、人間関係が変化してゆく。そのような目に見えない不安定なバランスの上で生きている、どこにでもいる普通の登場人物たちを描くスタイルは、現代小説のひとつの定型になっていったと思われます。

 さて、そこで本書です。何も池澤夏樹さんがチーヴァーの後継者である、というつもりはまったくありません。そうではなくて、チーヴァーが発見した家族の原型は、時代によってさらに変化を受け、姿を変えてゆく。姿を変えれば、物語の舞台も、人々の心のありようも色合いを変える。そのひとつの見事な結晶が、この最新短篇集だと言えないだろうか、と考えてみたのです。

 ここには八つの短篇が収録されています。そのうちのふたつ、表題作である「きみのためのバラ」と「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」は、小誌「考える人」に掲載されたもの。お読みになった方も少なからずいらっしゃるのでは、と思います。そして他誌に掲載されたその他の短篇と一緒に、こうして一冊に集められ並べられてみると、舞台はヘルシンキ、ミュンヘン、メキシコ、バリ、アマゾナス、沖縄、とつねに越境し、どこか故国から遠く離れた場所にいる登場人物の「今」が描かれている。

 アメリカの郊外という場所を主軸に展開していたチーヴァーの作品世界とは、そのような越境してゆく距離感がまったく違うものになっているのです。そしてそれが、何か特別な立場の人間の特別な状況であるというふうには、私たちはこれらの短篇を読まないのではないか。チーヴァーの時代よりも、あらゆる意味において地球ははるかに小さく、国と国の距離は近くなっているからです。この八つの短篇は、このような私たちの時代に書かれた短篇なのだと思います。

 とりわけ五つ目の短篇「ヘルシンキ」が見事です。ロシア人女性と結婚し、ひとり娘をもうけた日本人の男性が、ロシアへの望郷がやみがたく帰国することになった妻と離婚をし、母と一緒にロシアで暮らすことになった娘とは、年に二度だけ海外で会う約束になっている。その大切な約束の日を、父と娘のふたりがヘルシンキで過ごしているところへ、もうひとりの日本人男性である「私」が遭遇する、という物語です。

 これ以上は物語の説明に入るのはやめておきましょう。しかしこの物語は、たまたまロシアやヘルシンキといった、単なる気の利いた舞台設定に支えられているわけではないことが、この静かな短篇の圧倒的な読後感が証明しています。私たちは母語とどのようにつながっているのか。母語を介して子どもとどのようにやりとりをしてゆくのか。子どもが成長するというのはどういうことなのか。それらが、ひとつの短篇のなかに、小さく光る忘れがたいものとして結晶している。

 短篇小説というものの力を、あらためて感じさせてくれる傑作だと思います。そしてこのような短篇を、チーヴァーは書かなかった。私たちは私たちの時代の短篇を生んでゆくのです。文学は人間の歴史が続く限り死に絶えることはない。大げさに聞こえるかもしれませんが、そんなことまで考えた短篇集でした。
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