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吉田秀和『わたしの音楽室 吉田秀和=LP300選』
(新潮社 絶版)

 たまたま古書店で見つけたこの函入りの本は、昭和41年(1966年)に刊行されたものです。定価は550円。「あとがき」をみるとこれは第二版で、「芸術新潮」に1959年から連載されていたものを単行本にまとめる際に増補改訂し、さらに全面改訂したのがこの本、ということになるらしい(版元なのに「らしい」というのは情けないですが、刊行当時には私はまだ8歳でした……)。

 吉田秀和という批評家の文章には独特のスタイルがあります。やわらかく、めりはりがあり、読み手をさりげなく揺さぶるリズムがある。それはまさに音楽のようで、いま読んでいるのは音楽について書かれているものを読みたいから読んでいるのか、そうではなくて本当は吉田さんの文章を読みたいだけなのか──いやつまりは両方なのですが──どこかわからなくなってきて陶然となることがあります。吉田秀和という人の文章を読むことは、他では味わえない得難いひとつの経験です。

 ためしにプロローグの文章を読んでみましょう。クラシック音楽の長い歴史のなかから、名曲を300選ぶという「芸術新潮」から与えられた連載の主旨に触れて、音楽の歴史をとらえることはどういうことか、について触れている部分。新しい発見が毎年行われるいっぽうで、依然としてわからないことも増えてくる、ということをめぐって、吉田さんはこう書きます。

「ある文明が、何かの意味で、それまでの安定をうしないかけ、つぎのあたらしい局面にはいろうとしているとき、わたしたちの過去を見る眼が、かわってくるらしいのである。あらゆる文明は、人類の歴史についての固有の解釈をもつ。あたらしい文明は、それぞれ、歴史をかきあらためながら生れてくる。それは、現在を改変し、未来をつくりだしてゆくだけでなく、過去にむかっても、あたらしい照明をあてる。あるいは過去をあたらしく見る目は、今日を改変する手につながる」

 歴史とは何か、をみごとに言い当てた言葉だと思います。私たちが歴史のあたらしい段階に踏み入れようとするときには、過去にむかってあたらしい光をあてなければいけない──厳しい見方であったとしても、淡々と語られる言葉の角度がおしつけがましくないからこそ、ふかく納得がゆく。これこそが、吉田さんの文章の持つかけがえのない魅力のひとつでもあります。

 エピローグからも一カ所、引用しましょう。

「レコードは、親しい何人かのひとといっしょに、あるいは、ひとりきりできくものである、自分の部屋で。レコードは、自分が音楽をききたくなったときに、自由に、とりだしてかけることのできるものである。かつての王侯貴族は、それに似たことができたかも知れないが、しかし、その人たちでさえ、こんなに簡単な操作で、こんなに静かに、こんなにひとりっきりで、音楽の慰めと楽しみを味わうことはできなかった。
 レコードは、きくひとを、音楽を通して、見える世界からつれだして、ある見えない世界につれてゆく。そこでは、ひとは、何かから解放され、自由になる。レコードの醍醐味は、このひそやかな自由、この軽快な解放感にある」

 次号(7月4日発売)の特集は「続・クラシック音楽と本さえあれば」です。吉田秀和さんにも長い時間をかけてお話をうかがうことができました。聴き手は、吉田さんの批評を繰り返し読み、吉田さんのFM番組「名曲のたのしみ」を長らく愛聴してきた、堀江敏幸さんです。どうぞお楽しみに!
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