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ニコラウス・アーノンクール
『古楽とは何か──言語としての音楽』
樋口隆一・許光俊訳(音楽之友社)

 指揮者、ニコラウス・アーノンクールをご存知でしょうか? 毎年お正月にウィーンから生中継されるニューイヤーコンサートをかかさずご覧になっている人であれば、小澤征爾が指揮をした2002年の前年と翌年の2回、つまり小澤征爾をはさむかたちでアーノンクールが指揮を担当していたことをご記憶の方もいらっしゃると思います。

 アーノンクールの指揮は一度目にしたら忘れられないものです。とくに指揮者を正面からとらえて映すことの多いテレビ中継では。指揮者の表情というものは、どんなにポーカーフェイスな人の場合であっても、テレビで正面から見据えられると、曲の展開にしたがって抗いがたく刻々と変化してゆきます。汗がしたたり落ち、眉毛も激しく上下する。演奏会場では、指揮者の表情は客席からはほとんどうかがい知れませんから、これはテレビ中継ならではのもの。

 というか、おそらくテレビ中継が始まるようになって、「見せるもの」として何が一番面白いかテレビ局側が発見していった結果、私たちは演奏中の楽団員の顔ではなく、指揮者の表情を長々と見せつけられるようになっていったのかもしれません。あるいは、たとえば映像メディアに強い関心を抱き、その指揮ぶりをいかに印象的なものにするかについて心砕いたと言われる指揮者カラヤンのような人が、指揮者を撮るカメラアングルのパターンを意識的につくっていった部分もあるのかもしれません。

 とにかく、アーノンクールの表情は現代の指揮者のなかで断然すごい、と言えると思います。遠慮せずにわかりやすく言えば、「13日の金曜日」系の表情なのです。抑えつけることのできない激情が内側から溢れだし、その勢いに押し出されるようにして両目が大きく見開かれ、顔の全面がゆがみ、ふるえながら、こちらに襲いかかってくる。お正月のおとそ気分でぼんやりコンサートを見ていた人は、いっぺんで酔いがさめてしまったに違いありません。

 見方を変えれば、お正月に初めてアーノンクールの指揮する表情を見て、「これは何だ?」と居ずまいをただした人もいるはずです。この人が今やろうとしていることはなんだ、と。さらに言えば、アーノンクールの指揮のもとで演奏されるワルツの響きに、「いつもと違う何か」を聴き取ったとすれば、アーノンクールの独特の魅力にとりつかれるきっかけになったかもしれません。

 本書『古楽とは何か』はそんなアーノンクールの、もはや古典といっても過言ではない名著です(原著の刊行は1982年)。これを読めば、なぜアーノンクールがあのような表情で指揮をするのかが半分ぐらいは見えてくるような気がします。指揮するときのあのアグレッシブな表情が文章のスタイルにも充ち満ちている。しかしここではそのアグレッシブにならざるを得ない事情が本人の言葉によって明晰に示されています。音楽の歴史というものについての、ゆるぎない見識にささえられながら。

 冒頭にある「音楽と人生」という章では、現代においてクラシック音楽を聴くということにどのような意味があるのかについて、大きな問題提起がなされています。その問題を考えるアーノンクールの姿勢というものは生半可なものではありません。

「中世からフランス革命に至るまで、音楽は文化や人生の大黒柱のひとつだった。音楽を理解することは一般教養に属していたのである。今日では音楽は、オペラや演奏会に行くことで虚しい夕べを飾り、公式の祝祭を形成し、あるいはまたラジオによって家庭での静寂の淋しさを追い払ったり活気づけたりするための、単なる装飾と化してしまっている。したがって今日われわれは、量的にはかつてよりはるかに多くの音楽を、それもまさにほとんど切れ目無しに所有していながら、音楽は人生にはほとんど何の意味ももたず、ちっぽけな装飾にすぎないという、矛盾に満ちた状況が生じたのである」

 これはほんの入り口の問題提起にすぎません。本書のこの先には、音楽という深い森が、微細なものを見逃さない視線と鳥瞰する歴史意識によって明らかにされてゆきます。音楽とは何かを考えるとき、この本を素通りすることはできません。次号(7月4日発売)の特集「続・クラシック音楽と本さえあれば」においても、本書は異なる書き手によって何カ所かで取り上げられる結果となりました。特集にもぜひご注目を。
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