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養老孟司『小説を読みながら考えた』(双葉社)

 先日の小林秀雄賞で、選考委員を代表して受賞作発表の記者会見をした養老孟司さんは、その会見のなかで、「自分は、ただ純粋に本だけを読むという行為ができない人間だ」と語られていました。「鎌倉に住んでいるので、東京への行き帰りの電車に乗りながら、という状態で本を読むのがちょうどいいんです」。

 そして、「自分が電車に乗りながらいったいどれぐらいの時間、本を読み続けてきたことになるのか、暇なときに計算してみたら、仮に24時間眠らずに本を読んだとして、○○年間ずっと本を読み続けてきた計算になる」と言いながら、苦笑いしていました(すみません、聞いていたはずの「○○年」という肝心の数字を失念しました)。

 養老さんがミステリー、ファンタジーなどもよく読んでいらっしゃるのはよく知られた話ですが、本書は、「小説推理」誌でそのような種類の小説を中心に読書記録を書いておく、という主旨の連載をまとめたもの。なるほど養老さんはそのようにして本を読むのか、と本を読んだ感想じたいの面白さもありますが、表題にあるとおり、「小説を読みながら」養老さんが「考えた」事柄に話が及んだとき、つまり脱線したときの話が滅法面白いのです。

「フィクションを読み続けていると、だんだん疲れてくる。疲れてくると、なんだか馬鹿馬鹿しくなる。
 そりゃ当然で、そもそも馬鹿馬鹿しい話がフィクションなのである。元気がよければ面白く感じられ、元気がないと面白くない。それはフィクションに限らない。疲れたら、なにごとであれ、面白くない。それはあたりまえである。
 フィクションの面白さは一種のノリだから、乗れないとつまらない。乗るには体力がいる。歳をとると、その体力が減ってくる。だから年寄りは、ふだん面白くなさそうな顔をしているのであろう。うっかり乗せられると疲れる。そう思って、用心しているに違いない」(「事実と小説」の章より)

「解剖は手作業である。その作業をする間、ああでもない、こうでもないと、いろいろ考える。ほとんどは愚にもつかないことだが、おかげであれこれ、どうでもいいことを考える癖がつく。忙しくて、役に立つことばかりしていたら、こういう暇はあるまい。しかも死体という存在は、現代では日常というには程遠い。それなら『滝に打たれる』のと似たようなものであろう」(「読書と修行」の章より)

「私の考える『文学的』批評の典型は、小林秀雄『本居宣長』に対する、福田恆存の書評である。福田はこの本を徹夜で読んだという。読みながら、この本が本当にわかるのは、自分だけだと思ったと書いた。これは一種の特攻批評である。テロ書評といってもいい。客観性もクソもないからである。福田も小林も文科系ではもっとも『理性的』な人物であろう。その福田恆存にして、この書評がある。理科系の私からすると、文学者というのは、根本的には度し難い人種なのである」(「批評とはなにか」の章より)

「文科系にテキスト論がなぜ出てきたかというなら、構造主義の流れとしてであろう。それなら構造主義はなぜ生じたかというなら、自然科学の思想に対する、文科系の反乱という意味が大きいに違いない。反乱でいけないなら、反省でも対抗でも、コンプレックスでもいい。構造主義といえば、ソシュールから始まって、レヴィ・ストロース、ミシェル・フーコー、デリダ、ラカン、バルト、レヴィナス等々、いろいろ紹介されるから、たいていは名前を覚えるだけで終わってしまう。そんなものを、いちいち読んでいられない。フランスにだって、文科系と理科系の対立はある。エリートはどこの世間でも文科系だが、思想的には自然科学が優位になってきたから、文科系が慌てて考え直したのが構造主義の始まりだと私は思う」(「批評とはなにか」の章より)

 本書を読んでいると、個人的に少々ギクッとする部分も出てきます。夏の掲載号になると、賞の選考のために候補作品を「読まなければならない」事情について触れられているからです。いえいえ、賞の選考をめぐっての具体的な事柄が書かれていて、ゴシップ的に読まれるのを警戒して、というわけではありません。そうではなくて、選考という作業には、ただ単に本を読む、ということの喜びを奪うものがある、ということに気づかされるからです。

 しかし、養老さんの選考についての根本的な姿勢にも通じる以下のようなくだりを読むと、それは選考に限らず、養老さんという人の、他者に対する態度がうかがい知れるのではないか、と思います。ときに厳しくズバズバと書いているようでいて、養老さんの文章はからりと乾いている。いつまでも何かが残ってしまい、やがてカビがはえてくる、というような湿度がないのです。そこには1945年の敗戦に養老さんが見たもの、経験したことが大きな影響を与えているに違いないと思うのですが、それは養老さんがすでにご自分で何度となく書いていること。今回は下記の引用で止めておくことにします。

「欠点を本気でいうなら、いくらでもいえる。でもそんなことにさしたる意味はない。本は読まれるためにある。どうせ読んでしまうのだから、欠点ばかり挙げても、読んだ自分が損をする。それなら取り柄を探すほうが生産的である」(「個と普遍」の章より)
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