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内田樹『村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)

 また内田さんの本をとりあげることにします。第六回の小林秀雄賞の贈呈式とパーティを明日に控えているため(受賞作は、ご存じのとおり内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』です)、その「ご祝儀」として──というわけではなく、やはり一度読み始めたら一気に最後まで読み通してしまったので、ここでご紹介することにしました。

 本書は、その大部分が内田さんのブログ日記にこれまで書かれてきた「村上春樹テーマ」の文章からなり、それに加えて、雑誌などに掲載された「村上春樹テーマ」の文章を集めて成立した本のようです。「あとがき」によれば、「『村上春樹論を単行本で出しませんか』というオファーを頂くまで、自分が村上春樹について本一冊分も書いていたとは知らなかった」らしい。

 かつて作家論というものは、ある期間、集中して取り組まれるものだったのではないかと思います。雑誌に連載するか、書き下ろされるか。構成をある程度は考えた上で、一冊の本になるもの、あるいは一冊の本のなかのひとつの章となりうるもの、を意識的に目指して書いていた。ところが、内田さんの場合はそのどちらでもなく、日々折々に思いついたところで、ご自分のブログ日記の上で締め切りにも枚数制限にも煩わされずに、まさに徒然なるままに書いていた、というわけです。

 それでは仕上がった単行本が散漫な、まとまりのないものになっているかというと、そうではありません。いやもちろん、ところどころで同じテーマ、同じフレーズの変奏と思われる部分が重なってくるところがないわけではない。しかし読み進めるにしたがって、断片的と思われていた各章が、その重なりの部分も含めて、大きな流れのなかに組み込まれたものとして見渡せるようになってくるのです。内田さんの村上論に潜む背骨にあたるものが、ゆっくりと立ち上がってくる。後半にさしかかると、内田さんの村上論の核心が明確な輪郭を持つようになってきます。

「何かが欠けている」世界で生きてゆくこと、「邪悪なもの」から無意味に傷つけられうる世界で生きてゆくこと、それを描くのが村上春樹の文学である、と内田さんは指摘します。また、そのような世界のなかで生きてゆかなければならないとしたら、誰に頼まれたわけでもなく、いつかは誰かがやらねばならない邪悪なるものを前にした「雪かき」を黙って行うこと。村上春樹の文学が世界で読まれているのは、村上春樹がその大切さを知っているからだ、というわけです。

 内田さんはこう書いています。
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
 これが村上文学に伏流する「問い」である。

 本書がもうひとつ特徴的なのは、寛容な書き手であるはずの内田さんとしては珍しく、何かに苛立っている、ということです。何に苛立っているのか。それは、日本の文学の世界で、真正面から村上春樹を論じられることがあまりに少ないという「不当な事態」に対する素直な苛立ちです。

 しかし、ちょっと待てよ……。先に引用した「問い」にしても、内田さんが指し示そうとしている村上春樹文学のテーマにしても、なんだか「倍音」を聴いているような気がしてくるのはなぜだろう。それは、内田樹という書き手が様々な書物やブログというメディアを使って、私たちにつねに問いかけようとしている事柄と、ほぼ同心円をなす関係にあるからなのではないか。同心円ほどではないとしても、中心をふたつもつ楕円をなすような関係。私が本書を読了してもうひとつ見えてきたことは、内田さんが日々格闘しているテーマそのものだったのかもしれない、という気さえしてくるのです。
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