Kangaeruhito HTML Mail Magazine 263
 お気に入り

 昨日、「考える人」の編集部の人々と食堂で昼食をとっていたときのこと。よく言えば想像力、悪くいえば猜疑心、についての話になりました。「あの人が、あのときに、ああ言ったのは、いったいどういうことなのか」。私たちはよくそのように「想像」をめぐらせます。そして、「想像」をめぐらせる軸足は「私」のあたまの中にしかありませんから、「想像」はしばしば悪いほうへ向かってしまう。

 私も先日、深夜に帰宅して風呂に入り、タオルでからだを拭いて、半分朦朧としながらパンツをはいているとき、突然のように何年も前に経験した嫌な出来事が脈絡もなくよみがえってきました。さらに良くないことには、その嫌な出来事からさらに芋づる式に他の嫌な出来事がずるずると引き出されてきて、頭の毛がぴりぴりと総毛立つような気分になり、眠れない状態に。

 その嫌な出来事は、もうとっくに済んだ話で、出来事の周辺にいる人は忘れているにちがいない。いや、もう少し正確に言うと、私は「嫌な思い」をその場で呑み込んでしまい、「かくかくしかじかで私は嫌な思いをしました。ひどいじゃないですか」とは言いつのらなかったので、「嫌な出来事」は私のなかにだけそのようなかたちで残ったのです。言わないのが悪い。そう思います。だけど……と思うのです。あの人があのときにあのような行動をとったのは、私のことを信頼できなかったからに違いない。それまで私がとった言動に「信頼できない」と思わせる何かがあったということなのだろうか……。

 いやいや、このあたりでやめておきましょう。またふつふつと頭のなかに嫌な色をした暗雲がたちこめ始めました。こういうとき、人々はどうやって暗雲を払いのけるのでしょう? 食堂で話をしていた同僚とは、「なんかもう少しいい話をしようよ」ということになり、さっきまで「よくないことを考え続けていると、どんどん悲しい想像が広がっちゃって、最終的には自分が死んでしまう場面まで想像するの。そうするともうほんとうに涙もでてきちゃうのよ」と言っていたAさんが、「私はね、胡椒のにおいが好きなの」と笑顔で話し始めています。

「マイ・フェイバリット・シングス」という歌がありました。「サウンド・オブ・ミュージック」のなかでジュリー・アンドリュースによって歌われた名曲です。家庭教師のマリアが、暗い夜を切り裂くような雷にトラップ家の子どもたちがおびえている様子を見て、「こういうときには、自分のお気に入りのものを思いだすのがいいのよ」と言って歌う歌。「仔猫のひげ」や「さくさくのアップルパイ」、「鼻とまつげに落ちた雪」といったものが、短調のメロディーで数え上げられてゆくのです。

 この名曲が名曲たるゆえんは、オスカー・ハマースタイン二世の歌詞もさることながら、歌のメロディーがなんだか切ないものになっているところが大きい、と思うのです。凡庸な作曲家だったら、明るく励ます長調の曲をつくっていたにちがいないのに、リチャード・ロジャーズはあえて短調を選んでいる。状況はかならずしも良くないけれど、しかし「お気に入り」のものを頭のなかに並べてみて、気分がかわるかどうかやってみようよ。暗がりに蓋をしてお終いではなく、無責任でひとりよがりの楽天主義をおしつけるのでもない、その姿勢がみごとにメロディーとなって、歌詞に登場するものたちを、どこかはかなくも「ありがたいもの」にしているのではないでしょうか。

 私の「お気に入り」って何だろう。深夜残業をしながらぽつぽつと思い浮かべてみることにしました。それも冬と聞いて思いだすもの。いやあ、結果はつくづく平凡なものになりました。なんだか足もとを見られてしまうようで恥ずかしい気持ちもありますが、試しにその一部をランダムに並べてみましょう。

 おろしたてのセーターの匂い。ゆたんぽの沸く音。霜柱を踏む瞬間。こたつの居眠り。りんごの蜜の入った透明なところ。雪の日の朝の気配。

 忙しい日々もあと三週間ぐらいで終わります。今年はうまくいけば、例年よりも長い休みがとれるかもしれません。どうかみなさんも風邪に気をつけて、仕事や家事をひとつひとつ、片付けていってください。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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