Kangaeruhito HTML Mail Magazine 272
 私が死神だったころ

 先日、毎日芸術賞と毎日書評賞の授賞式とパーティに少しいそいそとした気持ちで出かけました。毎日芸術賞には野田秀樹さんが、毎日書評賞には鶴見俊輔さんが選ばれていたからです。私は仕事と人を切り離して考えることが苦手なたちで、だから好きな人の仕事をするのが好き、という「わがまま」で「融通のきかない」編集者。

 しばらく前にテレビで見た「情熱大陸」で、幻冬舎の見城徹さんが「人と作品とどちらを選ぶか」というようなディレクターの質問に「作品」だと即答し、「どんなにいい奴でも作品がつまらなかったら駄目、どんなにひどい奴でも作品が素晴らしければ当然そちらをとる」という主旨の発言をされていて(正確な引用ではありません、念のため)、私は自分の編集者としての限界をあらためて感じました(これも正確な気持ちではないな)。ちなみに私は人としての見城さんは好きです。

 話題をもとに戻しましょう。野田さんも鶴見さんも「人として好き」度がかなり高いため、授賞式パーティの当日はいそいそと出かけることになったのですが、そういえば私は20年以上前、大好きな野田さんに「死神」よばわりされたことがありました。

 私はまだ20代で、「小説新潮」の野田秀樹さんの連載見開きエッセイ「おねえさんといっしょ」の担当でした。これが実に難物で、毎月いただく原稿はおそろしく遅い。字もきたない。編集者泣かせの典型なのに、やっと手にしてみれば無類に面白いので、毎月の難行苦行を心待ちにするようになりました。当時は原稿をいただくためにどこへでも行っていましたから、月に1回は、都内のどこかで野田さんと会い、雑談をしていたことになります。

 ただでさえ遅いのに、芝居の公演中に締め切りが重なると最悪でした。締め切りを1週間過ぎるのはあたりまえ、目次も校了になって、南伸坊さんのマドンナを描いたイラストレーションも完成し(野田さんとの事前の相談でその月のテーマに選ばれていたのが、「ライク・ア・ヴァージン」で人気だったマドンナだったのです)、原稿に貴賤はないものの、編集長の席のあたりから「たかが見開きエッセイで何やってんの!」という幻聴まできこえてくる始末(いや……幻聴ではなかったかもしれない)。そんなギリギリの日、野田さんが本番の最中に舞台のセットから転落して慶応病院に緊急入院したのです。

 別刷りの16頁に組み込まれている連載見開きエッセイでしたから、最終校了間際に休載ということになると、替わりに何を入れたらいいのか。30枚や40枚の小説が「落ち」ても組み置きになっている待機中の小説があったり、あるいは雑誌の総頁数を減らして調整することも可能だったのですが……「意識不明というわけじゃないんでしょ? 強い打撲ぐらいなら書けるんじゃないの?」。

 ふだんは冗談を言い合うほどの関係にはなっていたのですが、さすがにこの日は重い気持ちで、野田さんの入院している病室を訪ねることになりました。野田さんはこちらの状況をくんでくださり、満面の苦笑いで「わかったよ、書きますよ」と言ってくださったのですが、翌日出来上がってきた原稿は大学ノートに横書きされたものでした(椅子に座って書くことができないので、ベッドに横たわったまま上を向いて書いてくださったのです。慶応病院の前にあった文房具店に駆け込んでコピーを取り、タクシーで印刷所まで直行したことを覚えています)。

 もうここまで書いたのですから、その原稿で私が登場するくだりを引いておきましょう。

「病院のベッドの上で、今、私は骨を休めている。肉と皮がいためつけられたからである。まことに有難い、実話だけに有難いことである。だれが、こんな姿で骨休みさせてくれって頼んだのよう。
 つくづく『骨休みして下さい』とは、末おそろしいコトバだ。つきつめれば『骨になって休んで下さい』早い話が『死んで焼かれて骨休み、ヤーイのヤイのヤイ』ということである。
 マドンナの宝石は、そこまで極端に願い事をかなえはしなかった。
 そう信じていた。つい、さっきまで……。
 コン、コンと病室の扉がノックされた。
 ふつうの人間のノックとは明らかに違った。病室内に異様な空気が流れ、異臭がたちこめた。まずい! 逃げようと思った時は遅かった。
『お迎えにあがりました』
 死神だった。死神は眼鏡をかけて背が高かった。小説新潮の編集者に化けていた。
『今月は、マドンナのおねえさんといっしょの旅行記を書く約束だったでしょ』
 死神はこの場におよんでそういうのだ。この場とは病室である。
『ぼ、ぼ、ぼ、僕は今、病院の先生に絶対安静と言われているんだ!』
 病躯に鞭打ち、渾身の力をふりしぼってそう答えると死神は、ニンマリ、
『よろしい、たっぷり骨休みはさせてあげましょう。ふふ、たっぷりとね。どうです? マドンナと一緒に温泉旅行というのは』」(野田秀樹『おねえさんといっしょ』より・新潮文庫絶版)

 思えばあの時、野田さんはまだ20代だったはず(野田さんは私より3つ年上です)。鍛えた体であることはもちろんですが、若さもあり、そしてこちらの苦しい台所事情を了解してくださったために無理をしてくれたのだと思います。いま思い出しても冷や汗が出ます。

 その後、私が出版部に移ってからも野田さんの担当を続けることになり、何冊も戯曲集を出させてもらいました。夢の遊眠社を解散し、ロンドンにわたり、あたらしくつくったNODA・MAPというユニットを軸にしてつぎつぎに話題作を上演してきたことはご存じのとおりです。お互いに40代に入った頃、芝居のはねた後の楽屋を訪ねたら、野田さんは着替えの最中で、両脚をびっしり何カ所もテーピングしていました。野田さんは「もう年だからさ、昔みたいに飛んだり跳ねたりするのはきついよね」とうれしそうな笑顔(私は野田さんのこういう笑顔も好きなのです)。

 いま52歳になった野田さんは、今年度の演劇賞を総なめにした感があります。朝日舞台芸術賞、紀伊國屋演劇賞、毎日芸術賞、読売演劇大賞……。そして直前まで上演していた舞台「キル」でも、こちらの目から見れば20代の頃と変わらない「飛んだり跳ねたり」をし、開脚したままお尻を床につける柔軟性も保っている。うーん凄いなあ。スピーチは苦手なんだよね、と以前に言っていた野田さんの授賞式での挨拶を聞きながら、野田秀樹という人の強い意志と高い身体能力にふたたび、みたび感銘を受け、原稿をいただいていた頃のことを思い出したというわけです。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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