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内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』
(文藝春秋)

 内田さんの書いているもののなかに通奏低音のようにして流れているテーマのひとつは、「大人とはどういうものか」「大人になるにはどうすればいいか」「大人になりなさい」だと思います。今朝のニュースでも大きく取り上げられている成人年齢の引き下げ問題も、大人と子どもの線引きをどこに引くか、という意味ではこのテーマに重なりそうですが、どうやら政治サイドの様々な思惑から始まったことを、司法と行政が大過なく引き取りうるか、今から責任分担しておこうという話にも見えてきて、子どもが大人になるには何が必要かを根本的に考える場になるかといえば、ちょっと怪しい気がします。

 かつてデンマークを取材したとき(「考える人」04年夏号)、デンマークでは子どもが大人になる通過儀礼がふたつある、と知りました。ひとつめは14歳で迎えるキリスト教の儀式「コンファーメーション」(堅信式)。幼児洗礼を受けた子どもたちが、14歳になったときにキリスト教の信仰をあらためて誓い直す儀式なのですが、デンマークにおいては厳粛な宗教儀式というよりも、要するに「この日をもって君たちは大人の仲間入りだよ」と自覚させ、大人たちがそれを祝う、ちょっと晴れがましい「成人式」のようなものだと考えればいいようです。

 もうひとつは18歳になった頃に男女問わず訪れる通過儀礼。デンマークでは「18歳になったら、家を出て自立する」という暗黙のプレッシャーがあるらしい。「考える人」で取材した数組の家族のうち、父親が日本人という家族がふた組あったのですが、日本人のお父さんのひとりは、「娘についてはね、何も無理して独立することなんかない、結婚するまでここにいればいいじゃないか」という考え方だったそうです。しかし、当の長女は19歳のとき自分の荷物を運び出して独立、長男も「お父さんは日本の感覚でそう言うけど、家にい続けたらバカにされるから、絶対一人で住む」と宣言して18歳で大学の寮に引っ越した、と聞きました。

 つまりデンマークでは、政治・司法・行政による「成人」の規定や解釈とは別に、子どもは大人になることを社会から求められ、本人もそれを望むシステムになっている、ということなんですね(ちょっと補足しておくと、デンマークでも近年、とくに都市部においては18歳になっても独立しない若者が少しずつ増えているとも聞きました。これは内田樹さんの本書で論じられている「少子化と家族解体」の章にもつながるエピソードだと思いますが……とりあえずこの話題は置いておきます)。

 それじゃあ自分はいったいどうだったのさ、ということになるわけですが、これが大変お恥ずかしいもの。大学の受験料、入学金、学費はすべて親まかせ(アルバイトをしても、それはほぼ全額レコード代に消えました)、大学在学中はもちろん、会社に入っても1年目までは親元から会社に通っていました。そして自分がもう「大人」であるという自覚があったかどうかも、はなはだ心もとない。たぶん自覚もなかったでしょう。大学の友人たちを思い返してみても、大学受験というプレッシャーから解放された曖昧な明るさのなかにあるばかりで、自立という言葉からはほど遠い表情をしていた気がします。さらに言えば、東京で生まれ育ち東京の大学に通う人間の場合には、その甘さ、自覚のなさは倍加していたのではないか、と自省の念とともに思います。

 さはさりながら、いやおうなく「大人になる」という問題を最初に突きつけられたのは、やっぱり就職の時期でした。私は大学4年のときには就職活動をする気がまったくおこらず(長髪はそのまま、スーツも買わない)、かといって積極的なドロップアウトをして生き抜く道をさぐるわけでもなく、「自分が社会に出て働くことに適応できるだろうか」と黒々とした大きな不安を抱いたまま結論を先延ばしにしていました。とにかくリアルだったのは「できればこの場から逃げ出したい」という気持ちばかり。つまり子どもだったということですね。いや、今でもあまり変わりないかな(咳払い)。

 就職志望の学生の面接をしていると、あの頃の自分よりもはるかに前向きで、大人としての自覚も持っていそうな学生が、私の目の前につぎつぎと現れるのでびっくりします。えらいもんだなと思います。たぶん私のときよりも、就職という現実は早い段階から前倒しのプレッシャーとなって彼らにのしかかっているのでしょうし、また、就職情報産業も成熟して、あの手この手で学生をその気にさせているに違いない。「就活」なんていう言葉にも、逃れられなくなるような催眠術的な効果があるのではないか。さらに言えば、年功序列、終身雇用システムが盤石なものでなくなり始めて久しいために、働くことは「会社まかせ」ではなく「自分だのみ」なんだぞという刷り込みもあるのだと思います。だから表情も違ってくる。

 ところがどうも最近は、新入社員の離職率が年々増えているらしい。本書のII章「働くということ」の冒頭は、「『若者はなぜ3年で辞めるのか?』を読む」で始まります。私の仕事上でつきあいのある異業他社の様子を見ていると、若手ばかりではなく10年20年のキャリアの働き手も、場合によっては役員クラスの人でさえも、ポンポンと音を立てて他社に移っていく(あるいはポンポンと音を立てて入ってくる)様子を見聞きします。しかしわれわれ出版業は、規制に守られている保守的業界であるせいか、身の回りではあまりそのような事態は展開していません。

 でも、本書を読み進めると、もう少し別の深刻さを考えるべきだという気がします。非正規雇用が増えていることも考え合わせれば(これは出版業界も同じ)、若者の労働環境は流動性が大きくなっている。ニート、フリーター問題ももちろんあります。そして本書の分析によれば、それらの現象はどうやら「自己決定、自己責任の呪縛」からひきおこされているものが大きい、というのです。そして内田さんは、「働くということ」について、現在の日本の若者をおおっているであろう認識は、ここでしっかりとあらためたほうがいいと明確に表明しています。「内田的労働観」の土台になる部分は、以下のようなものです。

「『働きたいけれど働く先がないのだ。これは個人の決断や趣味嗜好の問題ではなく、若者をバッシングしている社会構造のもたらす問題である』というのがニート・フリーター問題における『政治的に正しい』回答である。
 申し訳ないけれど、私はこの考え方の『働きたいけれど』という部分に実は留保を与えている。
『働きたいのに』なかなか仕事に就けない若者は『自分に向いた仕事』という条件に呪縛されているように思われるからである。
 残念ながら、若い人がその最初の就業機会において、適性にぴたりと合致し、それゆえ潜在的才能を遺憾なく発揮でき、結果的にクリエイティヴな成果を上げ、久しきにわたって潤沢な年収をもたらすような仕事に出会う確率は限りなく低い。
 ほとんどゼロと申し上げてよろしいであろう。(中略)
 だから、彼らがある日ふと『もう会社に行きたくないな』と思ってしまうのは当たり前田のクラッカーなのである」

 引用したいところはこれ以降もざくざくと出てきます。たとえば──。

「残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。
 とりあえず労働は義務である。(中略)
『条件が揃っていれば働いてもいい』というような贅沢を言える筋の話ではないのである。
『とにかく、いいから黙って働け』というのが世の中の決まりなのである。
 なぜなら、人間はなぜ労働するのかということの意味は労働を通じてしか理解されないからである」

「能力や適性は仕事の『前』にあるのではなく『後』に発見される」

「もしほんとうの意味で学生たちに生涯にわたって労働し続けるモチベーションを賦活するような『キャリア教育』があるとすれば、それは『私の労働を喜びとする他者がいる、私からの労働の贈り物を嘉納してくれる他者がいる』という考え方を内面化することに尽くされると私は考えている」

 引用の誘惑にはきりがないほど、このII章「働くということ」には今現在の日本の「労働観」に違う光をあてる言葉に満ち満ちています。末尾の文章を読めば、それが若い人にだけ向けた言葉ではないことも明らかになってくるのではないでしょうか。

「『社会人になる』ということを単純に『金を稼ぐ』ということだと思っている人間は長期にわたって労働を続けることはできない。そんな基本的なことを私たちは久しく忘れてきたのである」
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