Kangaeruhito HTML Mail Magazine 277
 

加藤典洋『考える人生相談』(筑摩書房)

 この前のメールマガジンにも書いたように、次号特集「海外の長篇小説ベスト100」のための座談会が先日行われました。出席者は青山南さん、豊崎由美さん、加藤典洋さんの三人です。その日の夜遅く、座談会の余韻が残っている頭と眼で、自宅の書棚の翻訳書が並んでいるあたりを眺めていました。何冊もの本の背表紙のタイトル文字がにわかに生き生きと眼に飛び込んできて、ひさしぶりに「あー、長篇小説が読みたい!」という気持ちに駆られました。

 翌日には豊崎由美さんの『百年の誤読 海外文学篇』(岡野宏文氏との共著)をあちこちつまみ読みしては吹き出したり、1979年の「ハッピーエンド通信」に載っていた、青山南さんのレイモンド・カーヴァーについての文章を読み直したり、本が出たとき買いそこねていた加藤さんの『考える人生相談』を、急いで手に入れて読み始めたりしました。お会いして刺戟を受けると、ついその人の文章を読み始めてしまいます。

 いやしかし、『考える人生相談』はじつに面白い。どう面白いかというと、十年ぐらい前に書かれた加藤さんの本、『言語表現法講義』(岩波書店 新潮学芸賞受賞作)の味わいとかなり共通したものがあるのです。それはどういうところか。たとえば、「絶対的な基準のようなもの」を前提にして語らないところ(つまり、『言語表現法講義』が「文章読本」的ではないように、本書も「人生相談」風ではない)。A地点とB地点のあいだを往き来していたはずと思ったら、C地点の存在が突然見えてくるところ(そういう意外な展開と発見があるのも同じ)。こちらが油断しているとバサッと斬りこんでくるところ(融通無碍なやさしさがあるようでいて、「定見」も「好み」もはっきりとあって、ときに厳しい)。何か二冊の本は兄弟関係にあるような気がするのです。

 余談ですが、もし『言語表現法講義』をまだお読みでないようでしたら、これもぜひお読みくださいと申し上げたい。タイトルがちょっとコワオモテなので腰が引ける方もいるかもしれませんが、まったくそういう本ではありません。「書く」ということが、その人の人生や経験とどう結びつくのか、「考える」ことと「書く」ことがいかに分かちがたく隣りにあって刺戟を与え合うものであるか。それをしみわたるような「ひらがな」の語り口で伝える名著なのです。従来の「文章読本」とはまったく違う、文章の面白さ怖ろしさが見えてくる、新しい本だと思います。

 以前の「考える本棚」で、内田樹さんの『ひとりでは生きられないのも芸のうち』をとりあげたとき、内田さんは、若い人が仕事に就くことを自己実現の手段としてとらえがちな傾向にあることにふれて、「能力や適性は仕事の『前』にあるのではなく『後』に発見される」ものであって、「残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である」と喝破している部分を引用しました。加藤さんもほぼ同じことを違う口調でおっしゃっています。

「人生には、自分はこういう人間だ、と自分で思っているのとは違う役回りをふられることがあります。自分は、けっこう一人でやる孤独な仕事が合っていると思っていたところ、多くの人のさまざまな利害を調整するような役回りをふられてしまう。会社なら、編集の仕事を希望して入社したのに、営業に回され、それで十年を過ごすことになる、といった具合のことです」

 加藤さんも希望した出版社に入ることができず、「ある大きな図書館」で本を出納する係と目録作成の単純かつ単調な仕事をあわせて六年間続けていたそうです。「ところが、この六年間の経験が、いまの僕にとっては、最も自分の中で大事な、意味深い、六年間になっているから不思議です」と言います。そして「自分が自分の生きていると思っているところとは、別のところで生かされる。これは、一つの経験になる。どういう経験かは、わかりません。まったく無意味だ、ということを経験することにも、意味がある。それを安易に意味づけなければ、ですが。それが僕の経験則になっているようです」。

 加藤さんは、友人について、不安について、習慣性について、未来と過去について、恥ずかしいという感情について、大人と子どもの境界について、などなどを考えてゆくのですが、その考え方のスタンスは、すべて同じところから根をはり、枝をひろげているような気がします。たとえば次号特集の「海外の長篇小説ベスト100」で複数の作品がランク入りしているフランツ・カフカについて加藤さんはこう書いています。

「よい作品というのは、自分がすぐれすぎていることによる同時代の聴衆、読者からの無理解をも、自分の肥やしにして、大きく、深く、なるものだと思います。フランツ・カフカの小説なんか、そういうことを考えさせますよね。当時、理解されていて、もてはやされていたら、ああいう作品は、書かれ得なかったでしょう。すぐれていたから、無理解にさらされていたのか、無理解にさらされたので、優れた小説が書かれ続けるなかで深化したのか、わからない。その両方がいえるかもしれない」

 はっきりと結論づけているのではないのに、何かをはっきりと言っている文章です。しかもカフカという人の幅や奥行き、生きていた時代の空気まで伝わってくるようではありませんか。そして加藤さんは過去にさかのぼり過去をよく考えながら、足取りもたしかに現代に戻ってくる。加藤さんはこう書きます。「僕は、未来をイメージするためのトレーニングに必要なものは、この『過去にこだわる』ことだと思っているのです」。

 このように「考えること」を自分で鍛えていった加藤さんが、手がかり、足がかりにしていたものとはいったい何だったのでしょう? 「現代の日本人にとって必要な『教養』とは、どのようなもの(こと)でしょうか」という質問に答えるなかで、加藤さんはこう書いています。

「本居宣長は、生きる上で必要なことはすべて歌作りで学んだ、みたいなことを言っていますが(そして『漢文』に反対しましたよね)、僕は、『英語』に反対ではありませんが、それ以前に必要なものが特にいまの若い人にはあるだろうと思う。それを、宣長に倣い、こう言いたい。考えるために必要なほぼすべてのことを僕は『文学』から学んだ気がする、と。そういうわけでやっぱり『文学』の面白さくらいはわかる人であってほしいと、思います」
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