須賀さんの最初の本『ミラノ 霧の風景』(白水社)が、私たちの前に突然のように姿を現したのは、1990年の12月のことでした。須賀さんはすでに61歳。この本ほど口コミで伝えられ、人から人へと手渡されるように読まれていった本はありませんでした。「もう完璧だった。あの文体、あの構成、あれだけの素材。最初のではなく十冊目の著書かと思われた。すごい書き手が出た、と本を読む人々は舌を巻いた」(特集のうち、池澤夏樹「アルザスに着くまでの道」より)

 続いて刊行された四冊の本──『コルシア書店の仲間たち』、『ヴェネツィアの宿』、『トリエステの坂道』、『ユルスナールの靴』は、熟練の寡黙な職人がつくりあげたハンドバッグのように、それぞれに甘やかな匂いを立てながら、私たちに一冊ずつ差し出されていったのです。

 最高級の革の手触り、内側に用意されたポケットの密やかなたたずまい、仕立ての堅牢さと繊細さ。大人のエッセイというものは、豊かで陰影のある人生経験と逞しい知性のある書き手にのみ許されるものなのだと、私たちは不意をつかれたような驚きに包まれるとともに、読書の歓びの深さについてあらためて知ることになります。

 敗戦から50年にあたる1995年、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件に覆われたこの年に、須賀敦子さんは初めての長篇小説の構想を得ます。ヨーロッパと日本のはざまに生きた自身の半生をふりかえりつつ、信仰と抗いがたい人間の運命に正面から取り組もうとした長篇小説には、『アルザスの曲りくねった道』というタイトルがつけられていました。

 しかし1998年3月20日、風の強く吹き荒れる日、須賀さんは冒頭の草稿だけを残して、69年の生涯を閉じることになります。今回の特集では、身近にいた妹の北村良子氏や担当編集者の証言、最後の旅となったフランス・アルザス地方の取材の記録、小説家たちの読み方、影響を受けた哲学者、創作ノート、未定稿など、さまざまな光をあてながら、この書かれなかった長篇について考えます。