Kangaeruhito HTML Mail Magazine 282
 わんわん

 昨晩、作家や編集者、新聞記者と会食の席で一緒になりました。場所は会社から歩いて行ける中華料理屋。お手軽でしかも、わりあいとおいしい店です。三週間前に会社の歓送迎会で行ったばかりでしたが、あそこならいつ行ってもいいかな、と思えるような店。奥には大きめの円卓がひとつだけあり、その一角だけ仕切りもついているので、ある程度の人数が集まれば個室として使えます。

 ところが昨晩は、比較的人数の多いグループの歓送迎会のようなものがオープンスペースに入っていて、いつになく店内がわんわんとうるさい(あー自分たちも三週間前、こんなだったのか……)。私たちが予約していた円卓の席の仕切りはたてつけが悪くて、ぴったりとは閉まらないのでどうしても隣のわんわんとした騒音がこちらまで漏れて響いてくる。ふつうの音量で喋っているとお互いに聞こえなくなり、いつしかこちらも大きな声で話し始め、ますます店内は、こちらでわんわん、あちらでわんわん、人の声の騒音が相乗して響き渡ることになります。あー、うるさい!

 全員で大声をあげながらの話題はなぜか、出版社や新聞社の四半世紀前と現在の労働環境の変化を比較検討する、という展開になりました。そうなればどうしても「昔はいかにたっぷり時間があったか」という結論が浮上してきます。退社時刻の5時半になる前に仕事を切り上げて雀荘へ出かけてしまう面々がいたり、仕事の途中で抜け出して映画を見に行く人もあり、しかも帰ってくればいいほうで、次の日だって出社は遅め。部長クラスの人が勤務中に電話をかける先が銀座のテーラーで、オーダーしていた服がいつ出来るのかの確認だったりする。

 新潮社の文芸書は(三十年前のラインナップを見ていると、九割以上が文芸書という印象です。私が入社した頃のコーポレイト・アイデンティティは、「文芸書の新潮社」でした)、今よりも刊行点数がぐっと少なく、しかも続々と増刷していたとなれば、実質的な労働時間は今より遙かに少なくて済み、だから遊ぶ。これは当然のなりゆきでしょう。

 ファクス、Eメール、といったテクノロジーは便利この上ないものだけれど、作業時間が短縮になる一方で、自分の足で出かけて受け取りにいったり、帰ってきたりする心理的な空きの時間がどんどんなくなってしまい、少しも救われない。新聞社の場合も、現像やプリントの不要なデジタルカメラになったため、フィルムを渡すデッドラインがぎりぎりまで延ばせることになり、仕事をする時間がずるずると延びてしまったり、あるいは写真が間に合うからと大慌てで記事を書かなければならないこともあるようです(新潮社のカメラマンもデジタル化されてからコンピュータ画面で微調整をする仕事が増えたので、フィルム時代より確実に労働時間が長くなりました)。

 そして最近の悩みは、大文字化による原稿量の削減問題だと聞きました。新聞の文字は年々大きくなっていて、しかし頁数が増えるわけではなく、紙面の大きさも同じですから、ひとつの記事を書くについて「一割から二割ぐらい、文章の量を減らして書け」と言われているそうです。5枚で書いていた原稿を4枚程度に圧縮しなければいけない、というわけです。

「考える人」の本文につくルビ(ふりがな)が「び」なのか「ぴ」なのか、近視用の眼鏡を外さないと見分けがつかない老眼の進んだ私こそ、新聞や本の大文字化の恩恵に浴する世代ではあるのですが、それならば大文字化に両手を挙げて賛成かというと、実はそうでもないのです。

 本の場合、1頁のなかで文字が組まれるとき、たとえば1行に43字組まれていて、それが18行並ぶ──その文字の集まりによってできる長方形の領域を版面(はんづら)、というのですが、これは文字の大きさ、文字と文字の間、行と行の間をどうとるかによって、広くなることもあれば、ギュッと圧縮することもできる。そして版面を上下左右で囲む余白の部分も、版面の大きさと位置の決まり方次第でいかようにでも変わります。

 私の好みで言えば、ほんとうは1行に40字、1頁に16行ぐらいの版面であれば、圧迫感がなく、文字を追う視覚的なゆとりが生まれると思うのですが、しかしそのような組みで「カラマーゾフの兄弟」を単行本化したら、いったい何頁の本になってしまうことか。頁数も増えれば、定価も上がるでしょう。ですから版面は、どのような作品を読者に提供するのかによっても変わってきます。ゆったり読むエッセイや短篇小説と、息もつけない圧倒的迫力で読み進める長篇小説が、同じ版面である必要はありません。

 だから考えもなく、ただ文字を大きくするだけで、1行が何字、行数はどれくらい、と組み方に神経を使わなければ、大きな文字と大きな文字が狭い空間にびっしりと並んで、なんだか大音量のしゃべり声が両隣から響いてくるようになり、かえって読みにくい、ということが起こります。さらに言えば、印刷所が変わるだけで、それぞれの印刷所の扱う明朝の書体も特徴がありますから、字間、行間の指定がすべて同じであったとしても、版面の印象が変わってしまう場合があります。文字組というものは、なかなかくせものです。

 神吉拓郎さんが昔、何かのエッセイで、それぞれの場面によって話す声のトーンやボリュームを変えられない人は駄目だ、と書いていました。ささやくように話すこともあれば、力強くはっきりと話す場合もある。その使い分けができるかどうか。いつも同じ調子で大声で話されても、人は「あーうるさいなー」と思うばかりで、肝心のことが耳には入らないし、心にも届かない。版面も似たところがあると思います。

「よーッ、(シャン)!」一本締めの声が聞こえてしばらくすると、隣の歓送迎会のグループはあっという間に席を立ったらしく、嘘のように静かになりました。こちらの会食の席はまだ続いていたのですが、私は校了があったので一足お先に失礼しなければなりません。まったく騒音のなくなった会食の席は、誰の声もよく通って聞こえます。さっきまでとはうってかわった静かな席で、先に失礼する挨拶をするのはほんの少し勇気のいることだなと思いながら、私は店を出て、会社に向かって夜の町を歩き始めました。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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