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殿山泰司『三文役者の無責任放言録』
(角川文庫・ちくま文庫 それぞれ絶版)

 私が小さい頃、「わけがわからないけど、なんだかすごそうな大人」だと思った人のひとりに、殿山泰司がいます。「大ちゃん」という、ちょっと小太りで気が弱い、「しゃあけえ、しゃあけえ」(=「だけどぉ……」)と岡山弁で尻込みする小学生が主人公のテレビドラマで、その大ちゃんを励ましたりなだめたり叱ったりする、里親役が殿山泰司でした(大ちゃんはなにかの事情で殿山夫妻に引き取られている、というシチュエーションだったような気がしますが、よく覚えていません)。「ダイ! そんなこと言ってねえで、やってみたらいいだろう?」「しゃあけえ……」

 滅多に笑顔にならない。声もちょっと低め。禿頭で肌も渋黒い。短い言葉には妙な説得力があって、先生やふつうの親たちのヒステリックな、あるいは猫なで声の命令とは違い、底知れぬ知恵のようなものがにじみ出していました。その知恵にはインテリのきいたふうな匂いはありません。雨や風を受け、着慣れた人の姿かたちを記憶してしまったコートのような説得力がある。大ちゃんも「しゃあけえ」と怖じ気づきながら、殿山泰司の演じる里親の、真摯でややぶっきらぼうな言葉を生理的な直感で受け止め、あらたな先の展開へとおそるおそる足を踏み出すことになるのです。主役を演じていたわけではないけれど、なんとも言えないリアルさのある役者、殿山泰司は私のまわりにはいない種類の大人でした。

 役者である殿山泰司が文章を書く人でもある、と気づいたのは大学生になってからです。最初に読んだのが『三文役者あなあきい伝』。殿山泰司の代表作といえば、やはりこれだと思います。タイトルどおり殿山泰司の自伝です。次号の特集「小説より奇なり! 自伝、評伝、日記を読もう」で、きっとどなたかがこの本については触れてくれるに違いないと信じ(?)、ここでは取り上げないことにしますが、銀座のおでん屋の息子として生まれ育ち、戦争中は徴兵され、そして復員した戦後は役者として活躍したのはご存じのとおり。そんな波瀾万丈の人生を、自分をもふくめてあちこちに悪態をつきながら、ときには神妙にもなって、あられもなく泣いたりしつつ自分の人生をふりかえる文章は、それまでに読んだことのないものでした。そして役者・殿山泰司のイメージとぴったり重なるのです。
 
 それからは、殿山泰司の本を見つければすぐに買い、むさぼるように読みました。今回とりあげたのは、最初に刊行された本の文庫版です。冒頭に収録された「オレは食事をケイベツする」は1962年に発表されたもの。そうか、伊丹十三のデビューとほぼ同じだったんだ、といま気づきました。本書には後年の傑作『三文役者あなあきい伝』の原型となるようなテーマがすでに登場しています。たとえばこんな文章。

 
「オレの家は服部時計店の裏にある小さなおでん屋であった。《お多幸》というおでん屋はオレの親父が創めたのである。その頃の銀座はとに角食べ物屋の少なかった時代だから繁盛したのである。今の様に食べ物屋が多かったら直ぐつぶれてしまったのではないかと、オレは信じている。今おでん屋によくあるネギマとかフクロとかキャベツ巻きとか、あんなのはみんな親父の発明である。偉大なる親父と言いたいけど、子供の眼から見た親父は酒飲みの助平のクダラナイ親父であった。オレは腹の底からケイベツしていた。しかし今では腹の底から尊敬している。オレ自身が親父の死んだ年頃になって、アチラコチラのオンナに苦労するとつくづく親父の気持が解るのである。
 隣の家が火事になっても、神明町あたりの芸者とウジャウジャしてて帰って来なかった親父、オレを生んでくれた母親を離別しやがって、手前の妾を母親にして、オレにお母さんと呼べと言いやがった親父。エレエよ親父、オレは尊敬してるぜ」(「銀座と親父とオレと」)

 もうひとつ、『三文役者あなあきい伝』にとっても重要な登場人物となる映画監督、川島雄三についても、「小さな《川島雄三伝》」とタイトルをつけて書いています。
 
「オレ如き若輩が《川島雄三伝》なぞとオコガマシイ。百も承知である。書くべき人は沢山居る。先輩諸兄よ。貧しい三文役者の非礼を許して下さい。書きたいのです。ポロポロと涙が出る。オレの涙にうるんだ瞳に免じて許して下さい。《小さな》と言う字を付けたのも原稿の枚数の関係ではありません。精神の関係です。叱らないで欲しい。イヤ叱られても書く。
 ロケ先の広島で川島旦那の訃に接した。信じたくなかった。嘘だと思った。同行の乙羽信子も《信じられない、信じられない》とツブやいた。悲しくも本当であったのだ。ロケバスの中で、宿舎の部屋で、オレはポロポロと泣いた。川島旦那よ、何故オレよりも先に天国へなぞ行ってしまったんだ。極道なオレが先に行くべきであった。バカタレじゃ。オレも連れてってくれ」

 いや実は、殿山さんの本を紹介しながら、この前ぱらぱらと読み返していた小林秀雄の『考えるヒント』の文章に、どこか殿山泰司のそれと共通するものがある、と気づいてしまったことについて、そのわけを私なりに考えてみようと思っていたのですが、うーん、まだ時期尚早という気がしてきました。較べてどうなるというものでもない、と言われたらそれまでの話。下手なことを書いたらそれぞれの読者から袋だたきにあってしまいそうです。でもたとえばこんな小林秀雄の文章を、殿山泰司の朗読で聞いてみたかった、ということぐらいは書いても許されるでしょうか。小林秀雄が、母親を亡くした数日後に遭遇した出来事。
 
「仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に附する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである」(小林秀雄『感想』)

 こうして引用しているあいだも、1902年東京神田生まれの小林秀雄と、1915年東京銀座生まれの殿山泰司に共通するものはある、とどうしても思うのです。しかし同時にそれぞれの本にお互いを牽制するような不穏な雲行きも漂っていました。まず本書『三文役者の無責任放言録』に収録されている1965年の日記風の文章。
 
「二日酔いである。二日酔いの時はムツカシイ本を読むに限る。大分前に買った江藤淳『小林秀雄』を引っぱり出して読む。よく判らないとこがあるけど判らんでもエエわい。もっと勉強しといたらよかったな、もう手遅れや」

 小林秀雄『考えるヒント』では、「井伏君の『貸間あり』」という文章のなかで、監督の名前は出さぬまま、映画「貸間あり」を痛烈に批判しています。これは殿山泰司の敬愛する映画監督、川島雄三の作品。小林秀雄はこう書いています。
 
「この映画を井伏君が見たら、かなり辛い気持ちになるのではあるまいかと考えた。井伏君にも久しく会わないが、もし、彼と一緒に見たら、彼はどんな顔をするだろうか。さて、どんな顔をしてみたものだろうか、暫くためらうであろうが、直ぐ気を取り直して、普段の笑顔になり、眼をパチパチさせながら、井伏鱒二という小説家は、聞きしに勝るエロだなあ、とでも言うかも知れない」(小林秀雄『考えるヒント』)

 近いもの同士は火花が散るものさ、ととりあえず我田引水の解釈をすることにして、今回はここまで、とすることにします。
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