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飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』
(青土社)

「芸術新潮」の編集にもかかわっているので、年に4回、校了がほぼ重なってしまう時期があります。今月はその「年に4回」の時期にあたります。今週の火曜日には「芸術新潮」が校了になったのですが、いまは「考える人」の校了のまっさかり。日々作業に追われて新しい本も読んでいられないですし、次号特集のテーマである自伝、評伝、日記は編集部のワークデスクのまわりにゴロゴロとあるものの、目移りしてしまって覚悟が決まらない。うーん、どうしようかと今朝まで悩んで、自宅の本棚で眼にとまったのがこの詩集です。

 刊行は1974年。思潮社の「現代詩文庫」のようなシリーズものをのぞいて、新刊の詩集としては、たぶん初めて買ったのではなかったかと思います。15歳ぐらいのときです。なぜ買ったかというと、その年の暮れに新聞や雑誌などに掲載される「本年度のベスト3」のようなアンケートでこの詩集をあげる人が圧倒的に多く、高見順賞も受賞して、とにかく評価が高かった。そしてやはり決め手になったのはタイトルでしょうか。

 薄手の段ボールの函にオレンジの紙が貼り込んである装幀もすばらしい(安藤元雄さんの装幀でした)。本文紙がまた厚みとテクスチャーのある独特のもので、本文組もたっぷりとおごそか、ありがたい感じがする。そして、冒頭におさめられている「母国語」というタイトルの詩はこう始まります。

「外国に半年いたあいだ
 詩を書きたいと
 一度も思わなかった
 わたしはわたしを忘れて
 歩きまわっていた
 なぜ詩を書かないのかとたずねられて
 わたしはいつも答えることができなかった。」

 現代詩という枠組みなんてどうでもいい。今これを書きたいんだ。そんなストンとした書き出しではありませんか。散文として書かれたものであっても、小説として書かれたものであってもおかしくない。ここには謎めいた言葉も、めくらましに会ったようなレトリックもない。むきだしでごろりと横たわっている言葉たち。飯島耕一という人を知らないでいても、この人の声が聞こえてくるようです。

 書き手が旅先にいる、あるいは旅先でつぶやくように考えたことを回想する、そんなシチュエーションで書かれた詩が多い。表題作の「ゴヤのファースト・ネームは」では、詩を書いている時点ですでに亡くなっているらしく、しかし記憶のなかに鮮やかに残っている友人とふたりで、スペインやポルトガルを旅した光景が断片的に登場します。

 そしてこんなパラグラフ。校了中の身には、じんじんとしみわたるような言葉です。

「    II

 時間は大きく弧を描いて
 流れるべきだ
 シェラネバダ山脈のあらわれるのを
 待っている汽車の窓辺で、 
 時間はまさしく
 そのように流れた。」

 そしてこのパラグラフの前、冒頭を引いてみましょう。

「    I
 
 何にもつよい興味をもたないことは
 不幸なことだ
 ただ自らの内部を 
 眼を閉じて のぞきこんでいる。

 何にも興味をもたなかったきみが
 ある日 
 ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
 隣の部屋まで駈けていた。」

 引用がいったりきたりして申し訳ないのですが、この「I」の次に、さきほどの「II」があり、「III」はこう続きます。

「    III

 きみは自らの内部からくる
 生存の信号を知覚する。
 ゴヤの信号は耳鳴りだった。
 ゴヤは耳の底の測候所からの
 発信を受けながら
 銅板を刻んでいた。
 ゴヤは見ることを止めなかった
 きみは見ることを
 拒否する病い
 のうちにあったから
 見るとは何なのかが いま
 手にとるようにわかる。」

 ここまで読んでゆくと、どうやら飯島耕一という詩人が、何かがきっかけとなって、しばらくのあいだ精神的な病の淵にいたらしいとわかってくるのです。そしてこの詩集そのものが、その病の淵から、「詩を書きたい」とふたたび思うことができるようになるまで恢復した、その過程そのものを、詩という表現手段によって、きざみつけていったものであるらしい、と気づくのです。それはここにおさめられた十九篇の詩に、浮かんでは沈み、また浮かんでくる通奏低音のように響いています。

 十五歳の自分なりに受け止めたところはあったでしょう。しかし『ゴヤのファースト・ネームは』は、これだけ平明であるにもかかわらず、私にはむつかしい詩集でした。それは、詩人が長期にわたってひどい精神状態の底に沈んでいたことが、どのようにして始まったことなのかが書かれていない、ということもあったのではないかと思います。しかし、何か強いかたまりのようなものが、この詩集の中心にはあって、わからないながらもなぜか何かを気になって、ときどき段ボールの函からするすると抜き出して、ぱらぱらとめくって、詩を読み直していたものでした。

 それから数年後、これは記憶で書くことなのでまったく確かなことではないのですが(メールマガジンがアップされる時刻の数時間前に書き始めると、こういうことになるのです。すみません。ほんとうなら調べてから書くべきことだとは思うのですが、調べる時間がない……)、たしか坂上弘さんや高井有一さん、古井由吉さんたちが70年代に始めた「文体」という同人誌(平凡社が発売元でした)に、飯島耕一さんが小説を発表されていて、それを読んでいるときに、「あ」と思いあたったのです。「ゴヤのファースト・ネームは」に書かれていなかった小さな事件について、それは触れているようなのでした。あやふやな記憶を要約すると、このような事件でした。

 飯島耕一さんは大学教授をつとめていた。比較的きびしい先生で、出欠はもちろん、学業成績のつけかたも公正であろうとしていたらしい。ところが、これもたぶんよくあることながら、ある一人の学生が、その公正さからみれば「不可」の成績がついてもしかたのない状況にあったのに、飯島耕一さんのつけたひとつの「不可」によって、卒業ができない、という事態になってしまった。学生は就職先も決まっており、なんとかしてほしいと被害者のような顔をして飯島耕一さんにねじこんでくる。

 飯島耕一さんはそれでは他の学生に対してとってきた態度と一貫しないことになると判断し、学生の要求を却下します。その後、学生から何か印象的な反応があったような気がするのですが、そこのところは私の記憶からすっぽりと落ちている。それからまもなく、飯島耕一さんは深い鬱状態と対人恐怖のような症状におちいってゆく──たしか、そのような経緯が書かれていた、と記憶しています(間違っていたら申し訳ありません)。

 私はその文章を読んで、「ゴヤのファースト・ネームは」の詩があぶりだされたように甦り、すとんと腑に落ちた気がしました。そして、それこそ「『ゴヤのファースト・ネームは』を読み直したくなり、隣の部屋まで駈けて」いました。

 そして実は、今週の火曜日に校了になったばかりの次号の「芸術新潮」の特集が、ゴヤなのです。校了になった火曜日に「波」の編集部に渡した次号についての原稿をそのまま引用させてもらうと──。

「82歳で亡くなるまで約二千点の作品を遺したゴヤは、おのれの欲望に忠実な人間でした。53歳で首席宮廷画家となり、画壇のトップに立つまでの出世願望はあからさまなほど。とはいえ、還暦を過ぎて迎えたスペイン独立戦争の蜂起を描いた二枚の油彩では、宮廷画家であることを逸脱するような、画家としての欲望を炸裂させてもいる。裸体画が禁じられていた時代の『裸のマハ』や、未亡人となったばかりの貴婦人とひと夏を過ごして描いた肖像画は、ゴヤの男としての欲望がむんむんと立ちこめる。しかし46歳で聴覚を失い、自分の子どもを次々に失い、ゴヤは失うものも多かった。晩年のおどろおどろしい『黒い絵』シリーズや、奇想と言うしかない版画の物悲しくも怪しい表現は、ゴヤの内奥にひそむ言葉にならぬ情動が、年老いてあふれだしたものにもみえてきます。人間としての興味の尽きないゴヤの生涯とその作品を、本人の手紙とともに追ってゆく大特集です」

 ゴヤは実に興味深い人物です。人間の欲望や恐怖、出世欲と表現欲、あらゆる明暗の、あるいは強弱の、振れ幅が異様なまでに大きく、濃く、深い。スペインという土地柄や歴史も、ゴヤという特異な存在を突き動かしている。その総体としてのおもしろさが、ゴヤのまわりにはあふれるように湧きだしているのです。そしてゴヤの絵は、現代アートのさきがけにもなっている。音楽の世界におけるベートーヴェンのように、現代と地続きの存在なのです。

『ゴヤのファースト・ネームは』が刊行された同年、堀田善衞さんの『ゴヤ』四部作が刊行されています。次号の「考える人」の特集では、この四部作についても取り上げています。半年前にはその気配もなかったゴヤの亡霊が、スペイン独立戦争から200年の時間を超えて、突然すがたをあらわしてきたかのようです。そして飯島耕一さんの詩は、30年以上の時間を経て、私のなかにふかぶかとしみわたってゆきます。
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