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中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』
(ちくまプリマー新書)
ちくま日本文学『中島敦』

 26日の読売新聞(夕刊)を読んでいたら、ドイツとチェコの研究チームがグーグルアースの画像(衛星写真をもとに、世界中のどこでも空からの映像を自由に見ることのできるもの)を詳しく調査した結果、世界に点在する牧草地などで、牛やシカが食事や休憩の際にたたずんでいる姿を分析すると、からだが南北方向に向いていることが多い、ということがわかったそうです。地磁気との関連など、これからさらに研究が進むことになるのでしょうが、実に興味深く、おもしろい話だと思いました。

 牛やシカがからだの軸を南北にあわせていた、というニュースからの連想で、今回は、最近読んだ二冊の本をとりあげることにします。どちらの本も「からだ」が南に向いているような気がするのです。一冊目は第三回小林秀雄賞の受賞者、中沢新一さんの新刊『古代から来た未来人 折口信夫』。本書のなかで、折口信夫の民俗学の核心にある「まれびと」論について触れている部分があります。「まれびと」とは、本書の註によれば「折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与えて去る神」。ところで「まれびと」は、どちらの方向からやってくるのか。

 中沢氏は折口信夫の『古代研究』から次の文章を引用しています。
「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか」
 
 中沢氏はこの折口信夫の文章を受けて、このように続けます。
「『わが魂』と書いているけれど、これは折口個人の『魂』のことだけを言っているのではなく、民族的な集合記憶のことをもさしている。この文章が書かれた大正のはじめ頃には、民族学や考古学や比較言語学の研究が進んで、日本人や日本文化のルーツのひとつが、どうやら南洋諸島にあるらしいということがわかりかけていた。台湾の先住民やインドネシアや中国南部地方やフィリピン諸島などから伝えられてくる、民族学の調査報告に深い関心をいだいていた折口信夫は、すでにその頃から、日本人の先祖となる人々が、南方の島々から島づたいに船でこの列島に渡ってきたという、明確な認識をもっていた」

 そして二冊目。二十余りの作品を遺して、三十三歳で亡くなった中島敦の小説には、南洋を舞台にしたものがいくつか含まれています。本書『中島敦』に収録されている「幸福」「夫婦」「マリヤン」といった短篇小説です。これらは、中島敦が「山月記」を脱稿し、1941年、学校の先生を辞めて、パラオ南洋庁の国語編修書記に就任した頃、喘息や肺炎に苦しみながら書いた作品でした。その死は翌年に迫っていました。

 南の島で、醜い容姿で苦しい日々を送る召使いと、あらゆる富、女性を独り占めにする長老とが、それぞれに毎夜見る夢のなかでおたがいの立場を入れ替えてしまい、やがて現実と夢の境までもが怪しくなってゆく「幸福」。パラオ本島の村で淫蕩な妻をかかえ密かに悩んでいた夫が、他の村からわたってきた「娼婦」的な役割をになう若い独身女性と深い仲になり、夫婦の関係が大きく変化してゆく「夫婦」。

 蒸し暑い、とろりと何かがとけてゆくような空気のなかで、海の水平線の向こうから名づけようのないものが渡ってくる。そんな濃厚な気配が充満する中島敦の短篇小説においては、折口信夫がとなえたマレビト的なるものが物語を動かしているようにも感じられるのです。

 本書には池澤夏樹氏の解説「知性と南風」が収録されています(この解説を読むだけでも本書はじゅうぶんに価値があると思います。ご本人はそのようなつもりはなかったと思いますが、これは池澤夏樹氏自身の考える「小説とは何か」「小説とはどのようにして書かれるべきものか」が率直に反映されていて、池澤夏樹による「池澤夏樹論」にもなっています)。こんな部分があります。

「それとは別に、この人が好きな理由が実はもう一つある。いつでも南を向き、一歩でも南へ行こうとするという彼の性癖である。彼はいつでも正面から南風を受けて立っている。
 人はそれぞれ生まれた時から自分にふさわしい方位を持っている。北に行きたがる者はどうしても北に行くし、生まれた土地を決して動かない者もいる。そういうさまざまな性向の中にあって、中島敦はついつい南の方に顔を向ける者だった」

 折口信夫や中島敦の南への志向は、牛やシカと同じものである、などと言うつもりはありません。ただ、南北という軸と、物語の発生とのあいだには、名状しがたく伏流するものが感じられる。個人的にはあきらかに北方志向の人間にとっても、これらの南をめぐる物語は、大きく深い吸引力を持っています。
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