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平野甲賀・黒川創『ブックデザインの構想』(SURE)

 ふさいでいるときに、会うとだんだんとほぐれてきて気持ちを楽にしてくれる人がいます。相性もあるのかもしれませんが、誰にとってもそういう存在となってくれる「ほぐれる人」がときどきいるような気がします。たとえば、装幀家の平野甲賀さんは、そういう人のうちのひとり。平野さんと仕事をしたことのある編集者なら、同じような気持ちになったことがあるのではないかと思います。

 平野さんは90年代に入るまで、晶文社のブックデザインをほとんどすべて一人で担当されていました。その仕事の全貌は、『平野甲賀 装幀の本』(リブロポート)で見ることができます(現在は残念ながら絶版です。おそらく古本屋さんでなら手に入るはず)。装幀というものを私が最初に意識するきっかけとなったのが、平野さんの装幀していた晶文社の本でした。

 本書は、黒川創さん(小誌で西村伊作伝「きれいな風貌」を連載中)が編集の中心にいる「編集グループSURE」の本。装幀家・平野甲賀さんをゲストに迎えた公開座談を活字化したものです。鶴見俊輔さん、山田稔さんもゲストで登場。これがなかなか面白い。平野さんが旧知の人々と一緒であるからか、あるいはもともとそういう方だからか(たぶん後者のほうが勝っているのではないか)、終始リラックスして装幀、描き文字について語っています。

 小誌でもその一部を掲載して、のちに単行本になった、鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』についての話も出てきます。少し引用してみましょう。

 
鶴見 わたしは、はじめて平野さんに自分の本の装丁をお願いしたのは、出版社をとおしてだったと思うんですが、頼んだのは安い本なんですよ。豪華な本とぜんぜんちがうんですね。そのとき、平野さんはこういう安い本を作りたいって言ったんだ。最近になると、『日米交換船』というすごく高い本の装丁をしていただいて、たいへんうれしかったんですが、そういう安い本を出したいという装丁者がいるんだということには驚いた。
平野 ははは。
黒川 平野さんに最初に装丁してもらった鶴見さんの本って、どれですか?
平野 なんだっけな?
黒川 『いくつもの鏡』かな。朝日新聞に連載した論壇時評。
鶴見 わたしがはじめに思いついたのは、『見よ、旅人よ』っていう本があったでしょ?
黒川 長田弘の。
鶴見 あれを見て、ああ、こういう本をわたしも出したいと思ったところから、はじまったんだと思う。だけど、最後は『日米交換船』ですから(笑)。
平野 そういう注文をどんどん言ってくださいよ。これは豪華にしろとか。

『いくつもの鏡』(1976年)も『見よ、旅人よ』(1975年)も、どちらも店頭に並んだときに手に入れて読んだ本でしたが、鶴見さんが『見よ、旅人よ』を見て依頼したのが『いくつもの鏡』だとは知りませんでした。両者ともに、写真を全面に敷いて、その写真の上にラベルが貼られているようなデザインになっており、タイトル文字が白抜きになっています。書体は平野さんが写植文字でよく使われる「秀英明朝+かな民友」。たしかに二冊のデザインは姉妹関係にある、と今わかります。いやあしかし、あらためてこうして見直してみると、ある種の本が疑いもなく自信をもって世の中に出ていった時代の、迷いや媚びのない、みごとな装幀だなあ。

 いや、言いたかったのはそういうことよりも、この引用部分の会話にも現れている平野さんの感じです。「なんだっけな?」というところがいかにも平野さんらしい。平野さんはこのようにいつも「構え」がゆったりしているのです。たとえば装幀の仕事をしているとき、色校正を見てチェックする際にも、デザインの意図と違う色合いのものが出てきても、もしそれが結果としてよければ「これ、いいんじゃない?」とおっしゃる。そこがおもしろい。こちらがなんとなく拍子抜けした後で、しばらく時差があってから「なるほどなあ」と思えるような反応を、平野さんはよくなさるのです。『日米交換船』の装幀をめぐっては、カバーに使われている古い粗末な印刷物についてこんなこともおっしゃています。

 
平野 わりとね、ぼく、こういう印刷がずれたりするのが好きなんですよね。子どもの時に、紅梅キャラメルとかね、駄菓子屋で売ってるキャラメルのパッケージがずれずれにずれてるのがあったりして、それが体の中に残っちゃってるんですよね。それがいつも出てきちゃう。おれはそんなもんだよっていう、表明でもあるわけでね。

 アバウトというのは知恵のひとつだと思います。このように考えたのだから、このようにしてもらわなければ困る、となってしまうと息もつまるし、意外性もとりこめない。すべてを支配下におさめて、言いなりにさせようとすると、どこかに無理がでてきます。平野さんの仕事には、そういう「無理を通す」強引さや余地のない完全主義とはあきらかに一線を画す空気がある。だから、こちらも「ほぐれ」てくるのかもしれません。

 それは同席している鶴見さんの姿勢にも共通するところがあります。鶴見さんはこのような座談のときによく「びっくりした」「驚いた」とおっしゃる。それは、なにか予想外のものに出会うことをいつも待っていて、その「予想外のもの」に出会ったときに、鶴見さんの思考のスイッチがはいる感じがあるのです。平野さんも鶴見さんも、外にたいしてひらかれている、そこが似ているのかもしれません。

 鶴見さんの『いくつもの鏡』をひっぱりだしたら、ついつい読み始めてしまいました。そうしたら、こんなところが出てきました。本書のような座談というものが、なぜおもしろいのかを鶴見さんならではの視点で書いています。30年以上のときが経過しても、炊きたてのごはんのようにぴかぴかした言葉ではありませんか。

「日本の雑誌に座談会がさかんに用いられるのは、明治以後の日本の書き言葉が、日常生活の言葉から遠くはなれているので、それをさけようとするからだろう。
 書き言葉をさけて話し言葉を使うというだけならば、ひとりがたりを速記にとれば足りるのだが、話というのは、そういう孤独の状態では生きてこない。自分に興味をもってくれる人が前にいるという自然の状態があって、話は生きたものになる」(『いくつもの鏡』より「対話について」)

 SUREの本は書店では入手できません。ご興味のある方は、下記のサイトまで。 
 http://www.groupsure.net/books/index.html
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