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吉田健一『英国の文学』(岩波文庫)
草光俊雄『明け方のホルン』(みすず書房)

  昨日今日と東京は、日中は比較的あたたかでしたが、この週末はふたたびぐっと冷え込んでくるようです。いよいよ冬のただなかに入ってきたことが、皮膚をとおして実感されるようになってきました。

 冬といえば、思い出すのはイギリスです。いえ、正確にいえば、思い出すのはイギリスについて書かれた本、です。なんといってもまずあげておきたいのは、吉田健一の名著『英国の文学』。この本の冒頭は、何度読み返しても飽きることがありません。

「英国の文学が英国のものである以上、我々は先ずその文学を生じた英国と英国人に就て考えなければならない。英国は見方によっては、世界で最も醜くて住み難い国の一つであると言える。冬は長くて、その寒さは格別であり、真冬になれば小鳥は雀さえもどこかへ姿を消して、偶に飛び回っているのがあれば、どこの水溜りも凍っているので、食物よりも先に水を欲しがるのである」(『英国の文学』)

 イギリスの寒さというものを、雀を登場させてこれほど鮮やかに描くことができるのは、やはり吉田健一しかいない。そう思わせるのにじゅうぶんな、みごとな書き出しではありませんか。そしてイギリスの冬といえばもうひとつ、その寒さをどう愉しむことができるかを無意識のうちにも工夫してしまうのがイギリス人である、そう知らせてくれる本もあります。その冒頭を引いてみましょう。

「ポイント・トゥ・ポイントというレースがある。いってみれば競馬のクロスカントリで、野原や林の中を駆け抜けて速さを競う。当然、ヘッジと呼ばれるサンザシなどでできた生け垣や小川を越えて走る障害物競走、スティープルチェイスという性格もあり、競馬場で行われるレースの原型である。そのまた原型である狩猟の面影もまだ色濃く残っている。英国の田舎でよく見られる風景で、特にサセックス、ケントなどの南部、そしてウォリックシャやレスタシャなどの中部、サマセットやデヴォン等の西部諸州などで今でも盛んに行われている。秋から早春にかけて主に冬の季節に行われるが、冷たい冬の朝の空気の中、湯気を立てながら十数頭の馬が野原を疾走する様子は非常に気持が昂揚するものである」
(草光俊雄『明け方のホルン』)

 引用が長くなって恐縮ですが、実はこの先がとてもいいのです。ポイント・トゥ・ポイントというレースの説明を聞いたあとで、さらに描かれてゆくのは、レースが始まる前の臨場感。これは吉田健一の「雀」に匹敵するものがあります。こんな感じです。

「バーバのジャケットを着て、ハンティングをかぶり、パイプをくわえた初老の男が仲間とレースの予想をたてているかと思うと、美しい若い女性が色あざやかなスカーフを肩にはおり、緑色のハンターの長靴でぬかるみの中を歩きながら夫か恋人の騎手を激励している。そう、騎手はアマチュアで、プロではない。しかし第一級の乗り手たちである。レンジ・ローヴァの荷台からポットに入った熱い紅茶かコーヒーを出して飲んでいる家族たち、馬の世話に最後まで余念がない馬丁たち、と空気はなごやかながら、次第にはりつめてくる。馬券を売る男たちの賭率を呼ばわる声がさらに大きくなって、興奮はいやがうえにも昂まってくる」

 いやあ、きりりとひきしまったイギリスの田園の冬の空気が、そのまま伝わってくるようではありませんか。容赦ない冬の寒さを、他人事のように知らぬふりをしながら、しかし馬も人も吐く息は、隠しようもなく真っ白、という情景。

『明け方のホルン』に取り上げられている、第一次世界大戦に出征したイギリスの詩人たちのうち、私がいまとても気になっているのはエドワード・トマスのことです。イギリスの田園をこよなく愛したエドワード・トマスは、田舎暮らしを優先し、本を読み、書評を書く原稿料でおもに生計を立てていたため、貧乏暮らしを余儀なくされた詩人です。妻子がありましたが、第一次世界大戦に出征し、三十代で戦死します。

 次号の須賀敦子さんの特集の編集作業を続けているうちに、戦争というものが作家や詩人にいやおうなく影響を与えてゆくものなのだという、あらためて言うまでもないことが、この数日、私の頭のなかでぐるぐると回り始めているのです(須賀さんと同年生まれの色川武大さんも、その例外ではなかった、ということなども──)。

 そのことについてはいずれまた、「考える人」の誌面で考えることにして、今はとにかく入稿作業を進めなければ。年末進行もあり、冬号だけはいつもより発売日が約一週間早いということもあり(12月29日発売です!)、入稿作業は予定よりもはるかに遅れてしまっています。エドワード・トマスについてはまたあらためて、どこかで取り上げることにしましょう。

 最後に彼の詩を少しだけ、引用しておきます。冬来たりなば春遠からじ。イギリスにもかならず、空気のゆるむ季節がやってくるのです。



 
アドレストロープ
エドワード・トマス
瀬田貞二訳


そうとも、憶えているよ、アドレストロープは。
ある暑い午後、急行列車が
不時停車したとこだ
六月の末の頃さ。
 
蒸気の音がした。だれかが咳払いした。
だれも降りず、だれも乗らず、
プラットホームはがらんとして
アドレストロープという駅名だけが見えた。
(瀬田貞二『幼い子の文学』中公新書より)
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