Kangaeruhito HTML Mail Magazine 316
 睡眠不足

 いよいよ校了が差し迫ってきました。会社の机の上には、資料やゲラやCD-R、鉛筆、赤のボールペン、消しゴム、ハンコ、ホチキス、ポストイット、ムーミンの「ミイ」のマグカップなどが押し合いへしあいで、油断しているとあちこちで崩落がおこる状態です(昨日は一回、ひと山が崩れました)。頭のなかも机の上と同じ。いつ崩落がおこってもおかしくない状態です。

 私の場合の頭の崩落は、どうでもいいようなことでへらへらと笑いたくなってくるか、ささいなことでカッと頭に血がのぼるか、おおざっぱに分けるとこのふたつのうちのどちらかとなって、やってきます。編集部の人は、校了が近づく頃の私のこの傾向を熟知しているらしく、そのような状態になってくると、ちょっと遠巻きにしたり、あるいはニコニコと気を遣ってくれたりします。そういう気遣いがひしひしと伝わってはくるのですが、感謝の気持ちを表す余裕もなくなってしまうのが、私の修業が足りないところ。

 先週の「考える本棚」の原稿で、いま校了中の次号の特集(12月29日発売です)でとりあげる須賀敦子さんが、私の敬愛する色川武大さんと同い年生まれだと書きましたが、色川さんは、ナルコレプシーという難病をかかえていらしたので、睡眠ということに関しては、不足しているとか足りているとかいうような単純な二分法ではとうてい語れない苦しみを味わわれていました。ところが、何度かお目にかかった色川さんの姿を思い起こすと、穏やかで、感情の起伏をあらわにしない人だったという印象が強い。さすがです。

 そして「起伏」と言えば、色川さんの傑作のひとつ、『怪しい来客簿』がするすると私の頭に浮上してくるのです。以前にも引用したことがあるかもしれませんが、何度読んでも唸ってしまう文章なので、また引用させてください。

「私が関東平野で生まれ育ったせいであろうか、地面というものは平らなものだと思ってしまっているようなところがある。まず、地面は平らであって、人はその平らなところに両足で立っているのだと。
 したがって、山というものが、怖い。どうしてああなのか、納得がいかない。どの山であろうがいずれも異常であり、凶相に見える。海も不可解である。雲も怖い。だから私は花鳥風月が愛せない。
 山脈のように、横にうねうねと長くつながっているものは、まだいくらか眼に慣れるところがある。異常もあそこまでいくと一種の平凡に戻り、こちらもつい寛大になって、いっそそれならば大地全体が山脈と化してせりあがってもよろしいというような気分になる。眼を覆ってしまうのは、にゅっとそびえた個的な山である。
 富士山が怖い。このくらい異形なものは他にちょっと考えつかない。今でも新幹線で山裾近くをとおるたびに、どうしてこんな魔境のようなところに平気で人が住む気になるのだろうかと思う。あれはもうあの辺の才能を無駄に吸いとっているのであり、放置しておけば、界隈からすぐれたものが生まれる余地はない。即刻、切り崩しかき均してしまうがよろしい」(『怪しい来客簿』所収「門の前の青春」より)

 読み手によっては、なにかを狙ってわざとこのように書いている、と思うかもしれません。しかしそうではないのだ、ということが、次の吉行淳之介さんとの対談を読めばわかるのではと思います。話は『怪しい来客簿』をめぐって語られている部分──。

色川 あの本が出ましてから大勢の人に言われるんですけど、LSDをやってたでしょう、少なくとも麻薬体験はあるでしょう、クスリのなかでも特にLSDの人が見る幻想と非常に似ている、こう言うんですね。確かに実際にLSDをやってた人たちの幻想の話を聞きますと似たのがあるんです。ところが注射が嫌いだったものですから、クスリの真只中に一時期はいたんですけれども、ぼくはまったく打たなくて……いま生き残っているのは、そのクスリを打たなかったというのがたったひとつの理由じゃないかと思うんです。だけど、打たなくてもLSDと同じようなものが出てくるのは便利のような気もするし。(笑)
吉行 ヒロポン飲むのもやらなかったですか。
色川 錠剤は中学時代に。わりに普通にみんなやってましたね、試験勉強だとか。
吉行 薬屋で売ってましたよね、ゼドリンとか。あれは、戦争中、特攻隊用につくられた、という噂でした。
色川 たとえばLSDの場合、最も一般的な感じとして、地球がシワシワになる感覚があるんだそうです。そのシワシワのところに自分がへばりついているような感じが。それから、地球が自転している実感があったり。
吉行 回転しているところに自分が乗っかってる。
色川 舟のように。そういう感じがまず最初に来るんだそうですけどね、ぼくもそれはちょくちょくあるんです。それから山が恐いとか、そういうような感じもLSD的だというんですね。(『色川武大 阿佐田哲也全集』16巻より)

 対談はここから色川さんのナルコレプシーについて話題が移っていきます。色川文学というものが、あたりまえのことながら、色川さんという人の「脳」のなかから生まれてきたものだとあらためて実感される話なのですが、ご興味があればぜひ図書館などで続きをお読みください。

 今朝のNHKのニュースでちょっとびっくりしたことがありました。現在、最前線の研究では、眼で見ているもの、あるいは脳のなかに思い描いた映像、ビジョンを、画面上に現すことが可能になってきたそうなのです。つまり、頭のなかに富士山を思い描くと、その「頭のなかの富士山」を画像として取りこむことができる、というわけです。ニュースで見たところ、いまの段階では、×か○か△か、ぐらいの区別しかつかないような画像でしたが、これがどんどんクリアになっていくのは、それほど難しいことではなさそうです。研究者は、言語によるコミュニケーションができない身体障害者の、意思表示の手段のひとつとして使うことができるのではないか、と語っていました。

 色川さんが山について考え、書いているとき、その最新の機械を使って色川さんの頭に思い描かれている画像を映しだしたら、くろぐろとした富士山が現れるのでしょうか。しかし私はその画像を見るよりも、色川さんの文章で、山について書かれたものを読みたい。……と、まとまりのない話になってしまいましたが、とにかく今の私に必要なものは睡眠です。頭のなかに怪しいビジョンが浮かび始める前に、眠る時間をつくらねば。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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