Kangaeruhito HTML Mail Magazine 321
 いまごろiPod

 だいたい流行ものには、いつも三周半ぐらい遅れて手を伸ばすのが私のパターンです。あまのじゃくの部分と、めんどうくさがりの部分と、あとは何でしょう、恥ずかしいというのもあるかもしれません。ショーウィンドウに自分の姿が映っているのをたまたま目にするだけでも恥ずかしいのに、新しいものに飛びつく自分の姿……を想像するだけでも恥ずかしい。つまり自意識過剰ですね。

 これもまた年をとってきたことの証しなのかもしれません。サルの世界でも、「イモを洗ってから食べる」行動を始めたのは若いサルで、その習慣が若いサルのグループにひろがって、最後になってからおそるおそる見よう見まねで老いたサルが「イモ洗い」を始める、という有名な観察結果がありました。

 思いおこせば20代の前半は、私も率先してイモを洗っていました。「考える本棚」でも書いたことがありますが、「小説新潮」編集部時代にイラストレーターの渡辺和博さんの担当をしていた頃、毎月のように渡辺さんにお目にかかって「新しい話」を聞くのが好きでした。昼間の打ち合わせで渡辺さんがこういいます。「マツイエくん、ピテカン行ったことある?」「トロプスエレクトス……ですか? それ、何ですか?」渡辺さんニヤリと笑う。「出版社で働く人なんでしょ? 編集者なんだから、一度は行っておかないと。じゃあ、いつ行こうか」

 通称「ピテカン」、正式名称は「ピテカントロプスエレクタス」。80年代に東京・表参道の明治通り沿いにあった「日本で最初の」クラブです(もちろん発音はフラットに読む「クラブ」)。「考える人」の連載陣のひとりである宮沢章夫さんの『東京大学「80年代地下文化論」講義』という本にも「ピテカン」のことはたしか出てきたと思います。渡辺さんには西麻布にあった「クーリーズ・クリーク」とか「レッドシューズ」、「シリン」なんていう「カフェバー」にも連れて行ってもらったな。

 いっぽうで渡辺さんの興味の対象は「みすず書房」の本、たとえばメルロ・ポンティやレヴィ・ストロースの本などにもおよんでいました。それも内容を云々するよりは、本のたたずまいに目がいく。「みすず書房」の装幀は白っぽいものが多いから、渡辺さんに言わせると「シロナン」。つまり「白っぽい難解な本」。埴谷雄高『死霊』のことは「クロナン」と名付けていました。80年代のニューアカブームについても、渡辺さんは興味津々の様子でした。

 ファッションのことも詳しかった。コム・デ・ギャルソンのコレクションで川久保玲さんの姿を遠目に見たのもたしか渡辺さんとご一緒のときでした。当時、白いシャツの一番上のボタンまで留めて着る若い人が多かったのを見て、渡辺さんは「老人趣味だよね。みんなさ、早くジイサンになりたいんじゃないの? 若いのはタイヘンだから」と言ってうれしそうな笑顔になったのを覚えています。

 渡辺さんの「新しもの好き」は、こんなふうにちょっと離れて見て楽しんでいるといったところがありました。だから私も気楽に同行できたのかもしれません。どっぷりはまっている人と一緒では、恥ずかしかったにちがいない。しかし「小説新潮」から異動して以降、渡辺さんにお目にかかる機会が次第に減っていき、私はゆるゆると「新しいもの」から遠ざかっていきました。自分が年をとっていったことも関係があるかもしれませんが、渡辺さんの不在がいま思えば大きかった。

 だから三周半遅れでiPodを手に入れることになるわけです(渡辺さんとのおつきあいが続いていたら、今頃はiPodどころかiPhoneを手に入れていたかも)。まだ手に入れたばかりですから、手もとにあるCDをインポートしては聴くという初期作業ばかりで、ダウンロードしたのはまだ一曲だけです(画面上の作業を間違えて、同じ曲を2曲ダウンロードしてしまい、150円×2=300円也)。

 いやーしかし面白い。音も予想していたよりはるかによかった。すでに自分の持っているCDから選んで20枚ぐらいインポートしていますが、容量の「空き」の部分はまだたっぷり残っている。こんな小さな薄っぺらなものにこんなに入ってしまうなんて(ちなみに私が入手したものはiPod nano)。海外出張を頻繁に繰り返していた頃、CDとポータブルCDプレーヤーをボストンバッグにギューギュー入れて押し込んでいたのは何だったのか、という感じです。こうなってくると、「孤島に持って行く1枚のレコード」的な質問の意味もやがて通じなくなるかもしれませんね。

 いま私がiPodで聴いているのは、ほとんどが60年代、70年代のものです。だから新しいもので古いものを楽しんでいる、というわけです。しかも古いものが容れ物が変わるだけでとても新鮮に聞こえる。容れ物は大事だなーとあらためて思います。耳にする手段が変わるだけでこんなに面白くなるんですから。

 しかしミュージシャンにとって、この変化がどんな影響を及ぼしているのか、これはまた別の大きな問題があるかもしれません。ポピュラー音楽におけるレコードの歴史が、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」の登場によってシングル盤志向からアルバム志向へと移ったのだとすると、ダウンロードの登場によって、アルバム志向からシングル的単品志向へと逆行している可能性もあるのではないか、とぼんやり想像します。送り手にとって、それはそれでなかなかしんどいところもありそうです。

 だからあまり能天気にiPod礼賛をしていると、どこかからおしかりを受けるかもしれませんし、「新しいこと」にじりじりと押し出されつつあるのかもしれない私たち紙媒体の仕事も、「iPod的なるもの」とは無縁ではいられないのです。いずれにせよ、渡辺さんの独特の距離感と遠慮のない好奇心を思い出しつつ、西麻布あたりを徘徊していたように、「新しいもの」の生態系へ、少しずつ足を踏み入れてみようかと思う年の初めです。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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