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『モンテーニュ エセー抄』(宮下志朗編訳)みすず書房

 初めてお目にかかる人にインタビューをするときには、その人が今どんな仕事をしていて、未来に何を期待し、これからどのような順番でそれを実現させてゆこうとしているのか──というようなことを聞く場合が多いのですが、どうしても身を乗りだして聞きたくなってくるのは、その人がこれまでにたどってきた人生について、その人がその人の言葉によって語り始めたとき、なのです。

 ここのところ続けて、丸谷才一さんへのインタビューを毎号掲載しています。次号のインタビューのテーマは「エッセイ」。古今東西のエッセイをとりあげながら、エッセイとは何だろうか、を考えていただいたのですが、最初のあたりでとりあげてくださったのが、モンテーニュでした。インタビューを終えて帰宅してから、しばらく前に買ったまま書棚に並べておいた本書をとりだして読み始めたら、これがやめられなくなるほど面白い。「あー、もしモンテーニュ氏がまだ生きていて、しかも目の前にあらわれたとしたら、それまでたどってきたモンテーニュ氏の人生について、直接お話をうかがいたいものだ」と思うほどでした。

 いやしかしよく考えてみれば、モンテーニュのエッセイというものは、かなわなかったインタビューをそのまま活字化したようなところがあります。そのように思うことができるのは、宮下志朗氏の柔軟でひらかれた言葉による新訳の力が大きい。高校生の頃、何度かモンテーニュを読もうとして、そのたびに挫折していたことを思い出してみると、なんだかもってまわったような文体で、退屈なことしか書いてないじゃないか、と思い、放り出していたような気がします。しかも当時、ドストエフスキーに夢中になった頭のままで、モンテーニュを読もうとしていたのですから、そもそも食べ合わせも悪かったんじゃないかと思います。

 この見事な新訳であっても、あるいは若い人が手にしたとすると、モンテーニュの文章に退屈さを覚える人も出てくるでしょう。それはたぶん、モンテーニュがどこかで人生を降りている人だからなのかもしれません。文章には背伸びもないし、威嚇もない。なんだかフワリとしていて、等身大なのです。宮下志朗氏はそのあたりのニュアンスについて「あとがき」でこう書いています。「ともかく、とりとめのなさというか、ややたががゆるんだようなところが、わたしなどにとっては、『エセー』のすばらしさだと映るのだ。しかも、このとりとめのなさが、読後、煙のように消えてしまうような性質のものかといえば、そんなことはない。いくつかの核のようなものが、読者の心の深いところに確実に宿る」。まったくそのとおり。いくつか引いてみましょう。

 たとえばモンテーニュは、率直で、飾りません。
「わたしの腹づもりは、この残りの人生を、気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、あたまががんがんしたってかまわないようなものなど、もはやなにもない。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。わたしが書物にたいして求めるのは、いわば、まともな暇つぶしによって、自分に喜びを与えたいからにほかならない」(「さまざまの書物について」)

 モンテーニュは始末のいい人生を考え、実践しようとしていたらしい。
「わたしの場合、もっとも長期の計画でも、一年は越えない。今はもう、終わらせることしか考えていないのだ。新たな希望や企てなどは手放し、立ち去るすべての場所に対して、最後の別れをつげる。そして、毎日、自分の持っているものを処分していく」(「なにごとにも季節がある」)

 モンテーニュは、平凡さのなかに真実を見る人でした。
「精神の価値とは、高みにのぼることではなく、秩序正しく進んでいくことにある。魂の偉大さは、高い場所ではなしに、むしろ月並みさのなかで発揮される」(「後悔について」)

「『もっと大きな仕事でもまかせてくれたら、自分の能力のほどを発揮できたのに』だって? あなたは生活のことに思いをめぐらせて、それをうまく導いたではないか。それだけでも、きわめつけの大仕事を成就したことになるのである」(「経験について」)

 ようするに、大人になるということはどういうことなのかをモンテーニュは書いていたのでしょう。だから子どもだった頃の私には、そのような考え方はおもしろ味がなく、刺戟もなく、退屈と映ったのでしょう。やっぱり大人でなければわからないものがある。モンテーニュのエッセイは、本書のシリーズのタイトルにもあるように、「大人の本棚」にこそふさわしいものなのかもしれません。
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