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湯川豊『須賀敦子を読む』(新潮社)

 著者の湯川さんと初めてお会いしたのは、三十年あまり前のことです。大学生だった私は、知り合いだった湯川さんから声をかけられて、文藝春秋社の季刊誌「くりま」編集部でアルバイトをすることになったのです。快活でもなく、手際がいいわけでもない、きわめておとなしい文学青年だった私を、どうしてアルバイトなどさせてみようと思われたのか。いま思い返しても不思議です。湯川さんは「ちょっとアルバイトをしてみませんか」と私に声をかけてくださったのでした(引き算をしてみたら、湯川さんは当時40歳。いまの私より10歳も若い!)。

 季刊誌「くりま」は当時の文藝春秋としてはめずらしいグラフィック誌でした。食と文化をテーマに、築地、パリ、カリフォルニア、ニューヨークなどを旺盛に現地取材して、既成の旅行誌や婦人誌では光の当てられることのない、しかし実はもっとも重要で興味の尽きない当地の歴史的、文化的な成り立ちまでも浮かび上がらせようという、知的かつゴシップ的おもしろさにも満ちた、大人の雑誌でした。

 編集部には、その後の私の編集者としての仕事にも折々で深くかかわってくださることになる、カメラマンの垂見健吾さんも所属していました。編集部の冷蔵庫に入っている黒ビールの小瓶を昼間から笑顔で飲んでいた垂見さんの横顔はいまでもよく覚えています。暑い夏の午後、女性編集部員が家でつくってきたヴィシソワーズのご相伴にあずかったことも忘れられません(これが実は、私の人生初のヴィシソワーズでした。こんなにおいしいものが世の中にあったなんて! と感激したものです)。

 雑誌の編集部というのは、なんておもしろいところだろう。「くりま」のアルバイトを通じて、私はあっという間に編集者の仕事に惹かれるようになりました。いま思い返してみても、「くりま」でアルバイトができたことほど、私にとって幸運なことはなかったと思います。内藤厚編集長のもと、デスクとして編集部の中心となって動いていた湯川さんの働く姿をうしろから見ることができたことも、いまの私の仕事を底から支える、大きな原風景のようなものになっています。

 編集者というものは、書き手にたいして徹底した受け身のスタンスでつくしてゆく、というようなものではない。書き手をさりげなくたくみにたきつけ、ときには議論もいとわず、書き手と真摯な、ときに駆け引きもふくむやりとりを重ねて、結果として書き手の実力がじゅうぶんに発揮できるよう動くべき仕事なのだ、と背中で教えてくれたのが湯川さんでした。

 私が須賀敦子さんにお目にかかることができたのも、湯川さんが主催する、書き手や編集者、新聞記者を集めた恒例の小さな忘年会(新年会の場合もありました)の席でした。湯川さんは『ミラノ 霧の風景』が刊行された直後に須賀さんに会いにゆき、次の本の約束をとりつけたのです。その後、『コルシア書店の仲間たち』、『ヴェネツィアの宿』と、須賀さんにとって重要なふたつの仕事を担当し、篤い信頼を得ることになります。

 本書は、そのような担当者としての立場を通じて、須賀さんとのやりとりを回想し、書いた本──では実はありません。まずは徹底して、須賀さんの本を読み直すこと。テキストに書かれてあることが何よりも大事である。そのようにして須賀さんの遺された仕事に向き合おうとしている本なのです。そのフェアな姿勢を維持した上で、須賀さんの生涯と交錯する部分と全体を見渡し、須賀文学の底でかがやくものを見つけ出そうという試みが行われています。

 編集者として隣で須賀さんの姿をみていた特権は使わない。もちろん、須賀さんとのやりとりも本書には登場します。しかしそれはあくまでもうしろにひかえる背景のように、演出を排して描かれるばかりです。テキストそのものに寄り添うこと。このフェアさが、本書の大きな魅力であり、骨格であり、原動力にもなっています。

 本書の元になっているのは「考える人」に連載されていた原稿です。評判の高い連載でしたから、お読みになった方も多いと思います。ですが、単行本化に際して、かなりの手が加えられていて、今回あらためて読み直したとき、初めて読んだような新鮮さを覚えました。湯川さんは本書のあとがきに、このように書かれています。

 
「書くという私にとって息をするのと同じくらい大切なこと」と須賀さん自身がいっている。私は長年本や文章とつきあってきて、結局のところ作家は文章のなかにしかいない、と考えるようになった。「文は人なり」というけれど、ある意味では「文は人以上」なのである。

 本書は、須賀さんの「文」と、「人以上」の「文」のなかにふくまれる「人」そのものを浮かびあがらせるものになりました。編集者の特権を行使せず、フェアな態度でテキストそのものに向き合ったこの本を、もし須賀さんが読んだとしたら、なんとおっしゃるでしょう。「ありがとう」という須賀さんの声が聞こえるようです。
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