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星野道夫『カリブー 極北の旅人』
(新潮社 8月25日発売予定)

 今週の土曜日は、星野道夫さんの命日です。1996年8月8日、カムチャツカ半島のクリル湖畔で、取材中にヒグマに襲われて星野さんは亡くなりました。もう13年になろうとしています。

 星野さんの死を伝える新聞報道を見たとき、私はなんとも言えない違和感を覚えました。星野さんを「動物写真家」としていたからです。たしかに、星野さんの写真集にはアラスカのムースやグリズリーに焦点をあてたものがありましたし、野生動物を撮影していたことも間違いない。しかし、「動物写真家」とくくられてしまうと、星野さんが表現しようとしていたことが矮小化されてしまい、伝わらない気がしたのです。

 星野さんが生涯にわたって表現しようとしていたのは、自然、そして人間でした。私にとって星野道夫という写真家は、あえて言えば「自然写真家」であって「動物写真家」ではない。それは、写真と拮抗するように力を入れて取り組まれていた星野さんの文章の仕事をたどりなおせば、さらに明確なものとして見えてくるでしょう(『星野道夫著作集』全5巻で文章の仕事をふりかえることができます)。星野さんの文章には、アラスカの自然とともに生きる人々の、私たちにとっては希有な、しかし彼らにとってはあたりまえで自然なことでしかないであろう生き方が、丹念に描かれています。

 十代でアラスカと運命的な出会いをし、その魅力にとりつかれ、日本の大学を卒業後、アラスカ大学野生動物管理学部で学び、その後はフィールドに踏み出していった。アラスカの原野を旅しながら星野さんが見たものは、人が踏み込むことのできない大きな自然であり、その片隅で自然からの恩恵を受けながら営みを続けている人々の姿でした。アラスカに来て十五年の歳月が過ぎ、家を建てることとなり、定住者となった星野さんが書いた文章──。

「さまざまな夢を抱いてアラスカにやって来たぼくは、まるでそのひとつひとつを消化していくかのように旅を始めました。アラスカという白地図の上に、自分自身の地図を描いてゆかなければならなかったのです。
 アラスカ北極圏を横切るブルックス山脈の、未踏の山や谷を歩きました。グレイシャーベイをカヤックで旅しながら、氷河のきしむ太古の音に耳をすませました。エスキモーの人々とウミアック(アザラシの皮で作ったボート)を漕ぎ、北極海にセミクジラを追いました。アサバスカンインディアンの村で、魔術的なポトラッチを見ました。カリブーの季節移動に魅かれ、その壮大な旅を追い続けました。数えきれないほどのオーロラを見上げ、オオカミにも出合いました。そして何よりも、さまざまな人の暮らしを知りました……そしていつの間にか十五年の歳月が過ぎていたのです」(『旅をする木』より「新しい旅」 『星野道夫著作集3』所収)

 星野道夫さんがいつか一冊の写真集としてまとめたいと思い続けていたものがありました。それはカリブー(アラスカに生息するトナカイ属のシカ)をテーマにしたものでした。広大なアラスカの原野を、集団をつくって1000キロ以上も季節移動するカリブー。その舞台となるアラスカという大自然。アラスカのあらゆる場所を旅し、その季節移動を、その出産を、その死をとらえてきた星野さんは、しかし「もう少し時間をください」と言いながら、写真集としてまとめることを急ごうとはしませんでした。星野さんにとってのカリブーは、それほどアラスカを象徴するものであり、大事なものだったのです。
 
 星野さんがカリブーの季節移動のまっただなかに入ってしまったときのこと。数万頭にもおよぶ大集団が遠くから姿を現し、野営をしていた星野さんのキャンプに向かって歩いてくる。しばらく撮影を続けていたものの、カリブーの群れが星野さんを包み込むようにして通り過ぎてゆくあいだ、星野さんはカメラを足もとに置いてしまい、その通り過ぎてゆく時間と空間を、全身で感じることを選んだのです。

 おそらくこのとき、星野さんは「自然写真家」であることすらやめていたのでしょう。撮影を続けていたら、感じることのできないものがある。それを全身で受けとめたい。生命そのものに素手で触れるような経験。その瞬間のためであれば、カメラであろうが、ペンであろうが、捨ててしまうことも躊躇しない。星野さんはそんな生き方をふくむ人だったのです。

 まもなく刊行される(8月25日発売予定)カリブーの写真集は、星野道夫さんの夫人である直子さん、そして私たち担当編集者と、長年デザインを担当してきた三村淳さんとの協働で、星野さんが生涯にわたって撮影をしてきたカリブーとカリブーをはぐくむアラスカの自然の写真を全点見直したうえで、新たに写真を選びだし、星野さんのカリブーをめぐる文章にそうように構成したものです。星野さんのこだわりのあった写真、あるいは「ナショナルジオグラフィック」誌に掲載された名作写真などについても、要所要所に配してあります。

 星野道夫という希有な表現者の、もっとも大きな仕事になったはずの写真集が、没後13年を経て刊行の運びとなる8月、アラスカの短い夏はまもなく終わります。カリブーは越冬する森林地帯へと、ふたたび長い旅を始めていることしょう。
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