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『臨床家 河合隼雄』谷川俊太郎・鷲田清一・河合俊雄編
『日本神話と心の構造』河合隼雄(いずれも岩波書店)

 今週の金曜日、明日10月2日が、第八回小林秀雄賞の授賞式とパーティです。今年の受賞者は水村美苗氏。受賞作は『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)でした。授賞式の翌日に発売になる「考える人」09年秋号には、選考委員による選評と受賞者インタビュー、受賞作品抄録が掲載されます。

 小林秀雄賞の選考会は8月末におこなわれました。もうすでに、はるか遠い昔の出来事のようにすら思えます。なんだか時の経つスピードが、どんどんはやくなっている気がします。しかしそのいっぽうで、昔の時間がありありとよみがえる瞬間があります。選考会当日には、選考委員だった河合隼雄さんのことがしきりに思い出されました。河合さんが倒れられたのは2006年の夏、第五回の選考会の直前でした。それから約一年の入院闘病生活が続き、2007年の7月に、河合さんは亡くなられました。

 小林秀雄賞が創設されたときから選考委員だった河合さんは、独特の緊張感のただよう選考会で、しばしば冗談をおっしゃり、場をなごやかにされることがあるかと思うと、あるときには一転して鋭い目つきになり、候補作の核心部分を一瞬にして言い当てるような言葉を、その場の誰にともなく、ぽつりと投げかけたりもされるのです。

 亡くなられて数ヶ月後に、「考える人」で河合さんの追悼特集を組みました。そして、特集「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」の冒頭で、このようなリードを書きました。長くなりますが、引用します。

「受け身のようでいて、果敢に行動もする。笑顔を絶やさないが、眼光も鋭い。夢のなかに現実の糸口を見つけ、現実の落とし穴を昔話で照らし出す。両義性の人だった。懐の奥にさりげなく入り込む著作に、どれだけの人が救われたかわからない。けれどもほんとうは、ひとりひとりと向き合い、語り合うことを、何よりも重く考えていたのかもしれない。一対一で行われ、けっして公にされることのない臨床心理の仕事を最後まで手放さなかったのは、『書くこと』と『聴くこと』を等しく重んじた人だったから──ではなかったか。人間という存在のもつ底知れなさを、畏怖と驚きをもって見つめつづけた人。日本と西欧を、過去と現在を、大人と子どもを両腕のなかに抱きかかえられた人。私たちはこれからも、そのときどきで『河合隼雄』を発見し、再会するだろう。だからいちどだけ、さようなら。そしてこれからもずっと、こんにちは」

 追悼特集の編集作業をしながら、そして校了になったあとも、河合さんにはわたしたちには見えないところがまだまだたくさん残されている、という思いは消えませんでした。それは臨床家としての河合隼雄さんの仕事でした。幸いなことに、臨床心理の現場で河合さんと長きにわたる交流のあった乾吉佑さんに貴重なお話をうかがうことができ、また、臨床家としての出発点となったユング研究所時代の河合さんについて、樋口和彦さんから詳しいお話をいただくことができました。このお二人のお話をうかがううちに、臨床家としての河合隼雄さん、その出発点となったユング研究所時代の河合隼雄さんを、もっと深く知りたいという気持ちがつのったのです。

 先日、岩波書店から刊行されたこの二冊の本は、その気持ちにこたえてくれるたいへん貴重な本です。『臨床家 河合隼雄』では、臨床家としての河合隼雄さんをよく知る方々が、さまざまな現場での河合さんのお仕事について証言をし、記憶をたどり、河合隼雄さんが切り開いたユング派の臨床心理分析の仕事の内実に迫っています。

本書には、われわれにはうかがいしれない臨床の事例、臨床についての貴重な発言などが収録されており、また、ユング研究所へと河合さんを導く役割を果たしたシュピーゲルマン氏へのインタビューもたいへん興味深い内容です。河合さんが、ユング派分析家の資格を日本人として初めて取得する以前から、特別な何かを周囲に印象づけていたことが浮かび上がってくるのです。

もう一冊の『日本神話と心の構造』は、その存在は知られていたものの、公刊はされなかった、「ユング派分析家資格審査論文」(1965年、ユング研究所へ提出)の初めての日本語訳が収録されています。まさに待望の翻訳刊行なのですが、一読すれば、ここに河合隼雄という大きな存在の原点があり、おそらく河合さんご自身が何度となく帰ってきた場所なのだとわかる、たいへん読み応えのある論考です。河合さんの、物語への絶えることのなかった関心のありかが、ここにしるされています。これからさまざまなかたちで行われてゆくであろう河合隼雄研究に、欠かすことのできない一冊でしょう。

 この二冊のおかげで、ひさしぶりに河合隼雄さんと再会を果たした気持ちになりました。「さようなら」はもう終わって、これからは「こんにちは 河合隼雄さん」という言葉がふえていく。二冊を読み終えたいま、そんな気持ちでいます。
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