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大井玄『痴呆の哲学』(弘文堂)

 痴呆という言葉を聞いて、言い知れぬ恐怖を覚える人は多いのではないかと思います。私もそうでした。自分にはいかんともしがたい脳の病変によって、引き起こされる認知障害。どうすれば防ぐことができるのか。

 痴呆と聞けば、CTスキャンによる脳の映像が思い浮かび、最新医学の情報への関心がたかまるばかりでした。しかし本書を読みながら、この「病気」をどうとらえるかは、世界観の問題、文化的なコンテキスト、言語というものが抱えている本質、コミュニケーションがいかに人間を変えるか……など、人間が生きることの根幹にかかわる問題と切り離せないのだと学びました。

 まったく迂闊でした。私にふりかかってくるかもしれない「病気」は、自分でその事態を意識することもできず、行き先はつまるところ、しかるべき病院や施設へ──そのようにしか考えることができなかった。つまり「どう防ぐことができるか」であり、「終着点」の恐ろしいイメージでしかなかった。

 たとえば、本書のなかにはこのような調査が報告されています。沖縄の佐敷村で老人性痴呆と診断された人の割合は東京での有病率と変わらないのに、老人性痴呆と診断された老人に、うつ状態や妄想・幻覚といった症状を示した例がなかったというのです。それはなぜなのか。本書ではこのような指摘をしています。

「沖縄人のコスモロジーは、たとえ若いうちに苦労しても、年とともにみんなが景仰する先祖に近づき、そして最終的にはカミに成るという、おだやかで楽天的なものである。したがって年をとることは尊敬される度合いが高まることであり、それは周囲とつき合う日常経験のうちで常時確認される。儒教の影響の濃い『敬老思想』は、沖縄方言に残る敬語体系にもっとも明らかである。
 沖縄本島中部の農村地域である読谷村では、『取る』の命令形は目下の者に対しては『トレ』、同年輩から少し目上であるならば『トミソーレ』、高齢者に対しては『トテクミソーレ』と敬意の大小がはっきりしている。(中略)誇りたかい痴呆老人にとって、これはストレスのもっとも生じにくい状況といえよう」

 本書を読んでつくづく思ったのは、痴呆は周囲とのコミュニケーションがおおきく症状を左右する、ということでした。そして痴呆の症状は、たんに脳の機能に由来する化学的反応ではなく、その個人がたどってきた心理的な歴史が反映される場合がほとんどであるということでした。深く納得するばかりです。

 さらに、言葉がもたらす私たちの心理的な世界のありようが、痴呆の核心でゆらめきながら私たちを動かしているらしい、とわかったとき、私は存在論的なふるえのようなものを覚えずにはいられませんでした。

 痴呆が進むと、最終的に人は言葉を失います。本書のおしまいに近いところで大井氏はそのなりゆきをこのように表現しています。臨床医としての数知れぬ経験と、圧倒的な知的探求心の先にあらわれてくる光景は、ほとんど能の舞台のような美しさを湛えています。私はもはや、痴呆を恐れない気持ちにすら近づきつつあるようです。

「最後にコトバは消え、コトバにより分別され、仮構されて生じた世界もおぼろになってくる。自己と他者とが確固とした実在であると思い、そのために経験せざるをえなかった切ない感情は鎮静した。自己と他者に執着したばかりに、愛ばかりか何と多彩な苦しみが生じたことか。まことに怒り、恨み、そねみ、羨望、嫉妬、憎しみに苦しむことの多い生ではあった。しかし今やコトバとそれに伴うイメージも消えた世界は静謐である」
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