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平松洋子『焼き餃子と名画座 わたしの東京 味歩き』
(アスペクト)

 食べもののエッセイほどむつかしいものはない。ときどきそう思います。お店の情報みたいなものですら、その説明文を読んでいるうちに、なんだか居心地のわるい思いに襲われることがある。なんと言えばいいのか、何かがうわすべりしているような、裏声の歌をきかされているような、伝言ゲームの列の最後尾で伝言を聞くような、言葉から重心が消えたあとの、よるべない感じがしてくるのです。

 おいしさの感覚は、ある程度は共有できるでしょう。おたがいによく知っている、あの店のあの料理の味について語り合うとき、そうだよね、と頷きあうよろこびは、たしかにあります。ところがおいしさというものは、食べる人の体調や心理状態によって、忘れられないものになる場合もあれば、台無しになる場合もある。いつもの味とどうも違う、という気がするとき、それは必ずしも料理人の調子が悪いためとは限りません。

 小林秀雄ではありませんが、料理のおいしさなどというものはない、おいしい料理があるだけだ──食べもののエッセイを読んでいると、そう言ってみたくもなってくるのです。

 平松さんのエッセイは、いわゆる食べもののエッセイとはどこかがちがいます。読んでいて一度も居心地のわるい思いをしたことがない。なぜなんだろう。あまりちゃんと考えてみたことがありませんでした。ところがこの新しい本で、その謎が少しとけたような気がしたのです。

 平松さんの文章は、料理のおいしさを分析するような、したり顔をしません。料理店を星で数えるような「検閲」もしない。おそらく平松さんの料理の味わい方は、そのつどそのつど、おだやかながらも絶対的なもの、いや「絶対的」という言葉が強すぎるとするなら、「一回性」のものであって、最大公約数の誰かにむかって高らかに宣言するようなものではないのです。全体のなかでの順列を客観的に測定するランク付けなど、どこかでうたがっているにちがいない。

 平松さんが描くのは、「きりりと澄んだ冬空がうつくしい」土曜日、改装工事中の家を出て、代々木上原で食べるドーナッツであり、荻窪から赤い電車、丸ノ内線に乗って赤坂まで食べにゆく韓国料理、フェ冷麺であり、「蝉の声もにぎやかな夏の盛り」に「顔をまっ赤にして汗みずくで外を歩い」て、食べたくなる野菜料理なのです。人はその日の気持ちとともに、何かを食べる。

 銀座でともだちと映画を見る前に、早めの夕ご飯を食べようと、入った定食屋兼居酒屋で、お店のおばちゃんの対応がいかにもまずいもので、かちんときた友だちが「出よう」とひとこと言うなり席を立ち、ふたりで店を出て、「肩を並べて柳のしたをすたすた歩く」。そこで次に入った店が、洋食屋の煉瓦亭。

 夕ご飯どきには少し早い時間、煉瓦亭でオムライスとメンチカツを食べている親しげなふたりは、このようにして直前まで嫌な思いをしていたりする。「夕方五時の洋食」と題するこの文章を読んでいると、これが食べものをめぐるエッセイなのかそうでないのかにはほとんど意味がない、と思えてくるのです。

 読んでいるうちに、「出よう」と言って席を立つともだちは私かもしれない、という気持ちにすらなってくる。だからもうこれはほとんど小説みたいなもの。いやそれよりも「夕方五時の洋食」は、ちょっと古色をかければそのまま小津安二郎の映画のシーンかもしれません。表題作の「焼き餃子と名画座」もそうであるように(この餃子を食べる場面にさしかかると、神保町にとんでいきたくなります)、本書は映画との相性がじつにいい。

 最後に極私的な感想を。

 この本をちびちびと読み進めていたら、びっくりぎょうてん。「ボア」が出てくるではありませんか。平松さんが書いている喫茶店「ボア」は吉祥寺にあった「ボア」。私にとっての「ボア」は同じく中央線・中野駅北口アーケードにあった「ボア」なのですが、うーん、そうだったのか。「ボア」の本店は吉祥寺にあったんですね。東郷青児の描いた絵がお店のシンボルだったのは同じですから、おそらく吉祥寺のあとに出来た支店だったのでしょう。中野の「ボア」は洋菓子店でした。ここのケーキはおおぶりで、ケーキを入れる箱もしっかりとつくられた貼り箱でした。中野の「ボア」の閉店も、じつに残念な出来事でした。
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