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さげさかのりこ『おじさんの畑は、今日もにぎやか。』
(PHP研究所)

「考える人」に「娘と私」を連載中のさげさかのりこさんは、2006年から「畑の日記」というブログを続けています(http://oiur.blog69.fc2.com/)。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、さげさかさんの自宅の近所にある、おじさんがほぼひとりで丹精している畑の様子を、春夏秋冬にわたってぶらりとたずねながら、短めの文章ときれいな写真で伝えるものです。

 連載「娘と私」でも報告されているとおり、さげさかさん親子は、おじさんの畑からは数時間も離れたところに引っ越しました。それでもときどき「畑の日記」を更新し続けているのでびっくりするのですが、つまり引っ越してもなお、たずねたくなる畑とおじさん、ということになるわけです。

 さげさかさんが記録している畑は、五分も歩けば高層ビルの建ち並ぶオフィス街に隣接しているらしい。東京の近郊には、たしかにいまでもぽつんと畑が残っている場所があります。そして都会で残されている畑をジャーナリズムが扱うと、農地のほうが土地の税金が安くなるのでそうしているのだ、というようなしたり顔の解説をよく聞きます。私も自宅から少し離れた練馬区の畑を横目で見ているときは、そんな気持ちがどこかにあって、見ているような見ていないような感じでただ横を通り過ぎていただけでした。

 さげさかさんはそうではありませんでした。お嬢さんを保育園に連れて行く道々、畑で仕事をしているおじさんの様子を何度となく見ていながら、ある日おじさんに声をかけ、ときどき畑作業を見学させてもらい、話をうかがい、撮影もさせてもらうようになった、というわけです。

 ブログで断片的にみていたものが、こうして本にまとまりました。再編集されて、おそらく加筆もされて、一冊で読み通すと、これがじつにおもしろいのです。農民としてのおじさんに蓄積されている知識、経験のおもしろさ、垣間見えるおじさんの個人史のおもしろさ、そして何の変哲もない畑のささやかな変化に目がいくさげさかさんの視線のおもしろさ。それらが複合的にひびきあいながら、小さな世界の見過ごしてしまいそうな、しかもそこには畑作業の隠れた理由もひそんでいる、美しくゆたかなひろがりが見えてくるのです。

 たとえばおじさんは、さりげないやりとりをしているうちに、戦時中に南方に従軍していたらしいことがわかります。南方のジャングルで放し飼いにされていた地元の象が、みんな首に鈴をつけられており、それが夜になると「カラコン、カラコン鳴るんだよ」という記憶。しかしさげさかさんは、その話にあまり深入りすることはしません。そんな話に続けてのこんな会話。
 
「嘘みたいですね」
「嘘みたいだなぁ、フフフ」
 木陰には涼しい風が吹く。
「今年はなんだかトマトの皮が厚いんだ。熱湯の中にちょっとつけると、うまくむけるらしいよ」
「そんな上品なことしないで、そのまま食べちゃうと思う」
 
 あるいはこんな話。農家にとってはあたりまえのことかもしれないのに、都会暮らしの身にはじつに新鮮です。
 
「奥の畑」のぶどうの実には、紙の袋がかけてあった。
「そう、虫がつくからな。蚊が吸うんだよ。あいつらも喉が渇くから、水場で水も飲むし、ぶどうも針刺して、汁、吸うんだよ。そうすると、ぷつぷつ穴があいちゃうんだ。桃なんかも、風で葉と擦れると、そっから実が傷むんだ。だからそういうやつは袋をかけるんだ」
 
 冬になっても畑の仕事はあります。たき火をして灰をつくる作業を見学しながらの会話。
 
「おじさん、たき火って、すごく暖まりますね。ポケットの中に入れてあるものまで、すごく熱くなってる」
「そうだよ、火は芯から暖まるよ。でも、木や竹の火は硬いんだ、強くて。藁の火は軟らかだよ。ほら、水にも軟水と硬水ってのがあるだろ? 溺れた人なんかを暖めるときには、藁の火を使うのが一番いいんだ。まわりを囲ってやれば、軟らかい火で体を芯から暖めるからな。風呂沸かすのだって、ガスなんかと、お湯が違うよ」
 
 さげさかさんが声をかけなければ、そのまま聞かれることのなかった話。ここには、語り、聞く、という人間の行為が、やがて文字という手段によって記録され、読まれてゆくようになった「本」の、成り立ちの原型のようなものがある、と感じます。ノンフィクションだとかエッセイだとか、そういったジャンル分けをしたくない、おもしろい仕事です。畑の写真もすばらしい。ご一読をおすすめします。
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