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 出版界の未来は明るい その1

 出版という仕事は、もともとは小さな規模で行われるビジネスではなかったか、と思います。最初は2人か3人で出発し、大きくなったとしてもせいぜい20人ぐらい。その場合の出版社というのは、単行本の刊行がメインで、雑誌や文庫などを扱うには、もう少し体制をととのえなければならない、という程度の規模です。

 乱暴な言い方をすれば、そもそも出版社は、その程度の規模の業態だったのではないか、と思うのです。いまは大手出版社数社の売り上げが市場に占める割合はとても大きく、小規模の出版社は大苦戦をしいられ、やはり大手にはかなわないと考える人がいるかもしれません。しかし私は、「これからはどうでしょう? 小さい出版社が力を発揮できる時代に変わってきたのでは」と思っています。

 そもそも戦前までさかのぼれば、大手出版社と呼ばれるようになったところでも、いまでいえば「小さな出版社」でしかなかったところも少なくないはず。椅子と机と電話さえあれば、そして編集のセンスがその人にあれば、出版社は始められたのです。

 日本の出版社の歴史をふりかえると、創業者には長野県出身者がじつに多いということがわかります。岩波書店の岩波茂雄氏をはじめとして(岩波文庫や岩波新書の創刊にかかわり、のちに会長になり、文筆家としても活躍した小林勇氏も、長野県駒ヶ根市の出身)、筑摩書房の古田晁氏(塩尻市)、大和書房の大和岩雄氏(伊那市)、みすず書房の小尾俊人氏(諏訪市)、理論社の小宮山量平氏(上田市)……。

 岩波茂雄氏が切り拓いたあとを、同じ長野県出身者が同郷のよしみで岩波氏に相談し、創立までこぎつけた──というような地縁による人脈が、長野県出身者をつないでいった側面もあるかもしれません。しかし、太平洋からも日本海からも離れた、資源も交通条件も決して恵まれているとは言えない場所で育った人々が、最大の原材料は人の頭のなかにあると考え、それを紙とインクでかたちにする出版業へと向かうことになる背景に、そのような土地柄が影響を与えなかったはずはありません(ちなみに私にも長野の血が少しですが流れています。助産婦だった祖母の故郷は、川中島でした)。

 しかし戦後、1950年代からはじまった高度経済成長とともに、出版社には大きな変化が訪れます。活発な消費行動をうながす広告の媒体として、テレビに続いて雑誌の役割が急速に膨張する。雑誌の編集の現場にも、多くの才能が集まってくる。高度経済成長によって生活のゆとりがうまれると、余暇の対象としての雑誌のおもしろさが人々に再発見される。部数も伸び、広告収入が倍々ゲームで伸び、雑誌の種類も点数も増え、毎週あるいは毎月、安定した収入を定期的にもたらす雑誌は書店にも歓迎されました。

 雑誌の黄金時代は、内容のおもしろさ、社会への影響力からいっても、60年代から70年代にピークを迎えたといっていいのではないかと思います。70年代からは文庫本も大きなマーケットとして急成長し、それまでは古典をラインナップしていた文庫の役割が、安く買える本としてのペーパーバック的役割へと大きくシフトして、大手出版社では雑誌と文庫が定期的なマスの収入源として機能するようになります。雑誌と文庫それぞれが大きな利益をあげ、社員の数も雑誌の数も文庫の刊行点数も年々増えていって、小さな出版社はいつしか大きな出版社へと変貌していた、というわけです。

 しかし、80年代を過ぎ、90年代も半ばにさしかかったところで、大きなブレーキがかかってくる。90年代半ばにバブル経済がはじけると、部数も販売収入も大きく右肩下がりになりはじめるのです。「不況に強い出版社」という言い方が昔はありましたが、もはや誰もそのようなことは言わなくなりました。この十数年は、ウェブの浸透を出版不況の第一の原因として、電子書籍端末に本の中身を配信するキンドルのようなシステムをひたすらおそれ、出版界の未来を憂いている、そんな自信喪失の状態に陥っているように見えるのです。

 私はまったくそのようには考えていません。電子書籍端末は、出版界に舞い降りてきた救世主とすら考えています。電子書籍端末の登場によって、書き手とネット書店と読者がダイレクトにつながってしまえば、出版社がパッシングされてしまう、と考える人がいるようですが、それは旧来の体制をそのまま維持しようとする発想でしかない。メディアが大きく変化すれば、出版界の構造も変わらざるを得ないのは当然のことです。

 この問題について私の考えていることを、引き続き次回も書いていくつもりです。しばらくおつきあいください。
 
「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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