Kangaeruhito HTML Mail Magazine 375
 

クリス・アンダーソン
小林弘人=監修・解説 高橋則明=訳
『フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略』
(NHK出版)

 私がクリス・アンダーソンの名前を知ったのは、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』(ちくま新書)で紹介されていた「ロングテール現象」の提唱者としてでした。

 念のためにおさらいしておくと、「ロングテール現象」とはこんな考え方です。たとえば、これまでは書店に並ぶ本のうち、「売れる本」は書籍全体の上位20パーセントが占め、しかもその20パーセントで総売上げの80パーセントをカバーしてしまう。つまり残りの8割は「売れない本」であり、書店からは早々に返品されてしまう運命にあった、というわけです。

 ところが、インターネット書店のアマゾンならば、理屈の上ではあらゆる本を、情報量の強弱をつけることなくウェブ上に載せることができ、また、在庫管理に関してもリアル書店よりコストダウンをはかることができるので、アマゾンの負担はそれほど大きくない。したがって、かつては「売れない本」と見られていたものでも、インターネット書店なら、手に入れたいと望む読者が購入する道筋を常時確保しておくことが可能になる。しかも1冊あたりの売り上げが微々たるものだとしても、80パーセントの総量として考えれば、実は売り上げにも大きく貢献する。ロングテールという考え方は、これまでの売れる、売れないという単純な二元論を根底からくつがえすものでした。

『ロングテール』の表紙に使われているグラフを、恐竜を横から見たシルエットとして考えれば、長い首の部分が「売れ筋」の20パーセント。胴体からうしろの、長い尻尾の部分が、80パーセントをしめるロングテール、というわけです。

 ロングテールの考え方は、まさに目からウロコが落ちる思いでした。その著者による本書は、無料(=FREE)で手に入れられるソフトやモノが、経済の構造をつくりかえつつあると分析し、主張するものです。しかし私が何よりおもしろかったのは、著者の言う「稀少性」と「潤沢性」の議論の部分でした。

 本書の前提にあるものは、これまでの経済は、実際の物質(出版界でいえば、紙とインク)を媒介とするいわば「アトム(原子)経済」だったということ。この「アトム経済」が、ウェブの登場によって、ネット空間をデジタル信号が行き交う「ビット(情報)経済」に置き換わってゆくであろう、と著者は考えます。「無料」が最大の戦略になりうるのは、様々なことを物質的限界によって制限されていた「アトム経済」ではなく、「ビット経済」だからこそ成立する、というわけです。言い換えれば、「アトム経済」は「稀少性」を意味し、「ビット経済」は「潤沢性」を意味することになります。

 実は、ここまでが今日の前置きです。本書で私がいちばんおもしろく感じたのは、クリス・アンダーソンが、アトム経済の稀少性のなかで働く人でもあるということでした。彼はアメリカの出版界のなかで、いまもなお、紙とインクという物質でつくるリアル雑誌の編集長も務めているのです。彼の編集する雑誌「ワイアード」は、もちろん無料ではなく有料です。ちょっと長くなりますが、本書から引用します。
 
 雑誌編集者として稀少と潤沢の両方の世界に住んでいる私は、毎日その緊張に直面している。印刷版のほうは、稀少なもののルールで運営している。ページ数は限られていて、一ページは高価だ。毎号、意見を載せてほしい、記事を書きたいと申し込んでくる人は何十人もいるし、記事にとりあげてほしがる企業も多いが、それらの申し出にイエスと答えるとそのコストはとても高くなるので、私の仕事はそのほとんどにノーと言うことだ。申し出をはっきりと拒絶することもあるが、それ以上に、最初からハードルをとても高く設定しているので、私のところまで申し出があがってくることはほとんどない。高価な資源を配分する責任を担っているので、私は伝統的なトップダウン方式の階層型マネジメントに頼っている。ここでは、何かを誌面に載せるためには、何段階もの承認が必要となる。
 雑誌のページは値段が高いだけでなく、変更がきかない。ひとたび印刷機が回ってしまえば、まちがいや判断ミスは永遠に(あるいは、少なくともリサイクル処分されるまでは)保存されることになる。制作過程で私がひとつ決断するごとに、引き返すには高くつく道を進むことになるのだ。もっとよいことを思いついても、あるいは、ほんの数週間前にくだした決断がそれほどすばらしいものには思えなくなっても、ときにはそのまま制作を続けて、とにかくベストのものに仕上げなければならない。そのような場合、私たちは金銭面のコストに集中するようにして、進まなかった道にあったであろう機会の損失については考えないようにする。
 一方、オンライン版は無限にページ数があり、いくらでも変更できる。こちらは潤沢な経済であり、まったく異なるマネジメントが求められる。私たちのウェブサイトには何十人ものブロガーが参加していて、その多くはアマチュアだが、みんな自分の書きたいことを編集を受けることなく書いている。サイトの一部では、ユーザーに意見を投稿してほしいと訴えている。こういう記事はどうだろうかというアイデアに対する基本的な回答はイエスであり、もっとはっきり言えば「わざわざ尋ねるまでもない」ことだ。つまらない記事にかかるコストは、その記事を読む人がいないという結果だけであって、もっとおもしろいはずの記事のスペースを奪ったということではない。成功すれば注目度が上がり、失敗すれば下がるだけだ。(以下略)
 
 ここには、紙とインクという物質を使って、その稀少性を意識しながら編集を続けている一編集者のリアルな実感がにじみ出しています。私が、クリス・アンダーソンを信頼してもいいと思ったのは、このくだりを読んだときでした。そして、ここで論じられている稀少性というテーマは、私たち出版界がいまもっとも「考えていない」ポイントなのではないか、と痛感するのです。

 そのことについての私の考えは、来週木曜日配信のメールマガジン(先週から始めた「出版界の未来は明るい その2」)のなかでお伝えしたいと思います。
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