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 出張の救い

 ウェブ時代の出版界をめぐって、あれこれ考えることを前回まで三回続けて書いてきました。しかし、「考える人」の次号(4月3日発売)の入稿がまっさかりになってくると、なんとなく腰も浮き気味で、目の前のデスクワークに気持ちが奪われてしまいます。あれこれ少し遠くのことを考えるよりも目先の仕事、という頭のめぐりかたになり始めました(ですから、「出版界の未来は明るい」のテーマで書くのは、今週は……いや次号が校了になるまでかな……ちょっとお休みにさせてください)。

 出版界が旧態依然とした部分を残したまま今日まで流れ着いてきてしまったのも、この「目の前の作業」に追われるのが仕事の大半を占めるからではないか。「次の号の特集はどうする?」「誰々さんの原稿がまだ入らない、どうしよう」「原稿の分量が増えてしまった。台割のページ数におさまらない」……理屈を述べている暇があったら、目先のことをなんとかしなければ。出版の世界では(とくに雑誌は)こういう仕事が実に多いのです。

 そんなときの救いは、会社の外に出る仕事がめぐってきたときです。私が入社したばかりの1982年当時は、ファクスが普及する直前の時代で、たとえば関西在住の作家の締め切り間際の原稿は、羽田空港止めの航空便で送られてくる場合がありました。今晩8時半に日通の貨物便のカウンターに原稿が届く、となると、私のような一番の下っ端編集者が羽田空港まで原稿を取りに行くことになるのです。

 文字通り使い走りの仕事ですが、私はこの仕事が大好きでした。「よろしく」と頼まれると、神妙な顔をして「はい」と引き受けていましたが、内心では「やったー!」と小躍りして叫んでいたのです。この「お使い」はタクシーを使って往復することが許されていて、なんとなくふかふかのシートの、車内も静かな個人タクシーに乗って、神楽坂から羽田まで往復する。それだけのことなのになぜかうれしい。

 とくにいいのは、首都高速に入ってから。タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」で未来都市の光景として撮影された首都高速の風景は、人間が創った人工建造物のなかを高速で移動する感覚がスリリングで、どこかバーチャルな感触があるのです。雑然とした人間くさい編集部からどんどん離れていく感じもうれしい。スピードに比例してどんどんからっぽになっていく頭のまま車外の眺めに見入っていると、もうほとんど犬か何かになって外を見ているような気持ち。

 空港が近づいてくると、ライトを点滅させている飛行機が暗い夜空を飛んでいるのが見えます。これもまた美しく、なぜか切ない。そして空港のはずれにある貨物便のカウンターのわびしい蛍光灯の下で原稿の分厚い封筒を受け取り、待たせてあったタクシーに乗り込むと今度は復路です。現実に引き戻される、惜しい気持ち。それでも会社に着くまでは、とりあえず往きの半分ぐらいのうれしさは残っていました。

 昨日のおひな祭りの日は、朝からカメラマンの運転するクルマに乗って、日帰り取材に行っていました。特集の最後の取材です。関越道にのり、藤岡ジャンクションで上信越道へ、そして碓氷軽井沢インターで降りる。夏には避暑客でにぎやかになるこのあたりも、いまはほとんど人気がありません。雪をかぶった浅間山のおおきな姿を仰ぎ見ながらたどりついた場所は、眠ったように静かでした。

 透きとおった空気のなかで過ごした4時間は、撮影とインタビューであっという間に終わりましたが、カルシウム分の多いわき水を沸かして淹れてくださった紅茶のおいしさは、格別なものでした。帰り道、あれこれ明日やらなければならないこと(つまり今日ですね)を頭のなかで指を折りながら考えたりしつつも、やはり遠く会社を離れていることでどこかのんきな気分になり、まあなんとかなるかな、とぼんやりしていたら、われわれのクルマの右側の追い越し車線を赤いライトを点滅させた覆面パトカーがひゅーっと走り抜けていきます。前方のクルマがスピード違反で検挙される現場に遭遇したのです。

「ぼんやり」への警告のような赤いライトに、ほんとうにびっくりしました。カメラマンのSさんは覆面パトカーに早くから気がついていて、ずいぶん前から速度には気をつけて走っていたようです。覆面パトカーが速度違反のクルマを追尾し始める直前、「あ、やられる」とSさんが呟いた直後の出来事でした。覆面パトカーが違反車を左の路側帯へと誘導してゆくのをあとにして、私たちのクルマは東京へと近づいていったのでした。
 
「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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