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宮沢章夫『考えない人』(新潮社)

 先週のメルマガで、編集部のいちばんの下っ端時代、そしてまだファクスが普及していなかった頃に、地方在住作家の締め切りぎりぎりの原稿を羽田空港の航空便貨物で受け取りに行く話を書きました。校了時のなんとなくざわざわした編集部を抜け出してゆく喜び、しかも往復をタクシーで(!)、夜の高速道路をひた走るよろこび。

 夜の高速道路、というのが私にとってポイントが高かった。そのときの気分は「スピードに比例してどんどんからっぽになっていく頭のまま車外の眺めに見入っていると、もうほとんど犬か何かになって外を見ているような気持ち」だと書きました。

 犬のようになっている自分。それは自分の意識にすぎません。犬になったような気持ちでいる自分の顔を、さらに外側から眺めてみたらどうなるか。それはこれだ、という絵を見てしまいました。宮沢章夫さんの最新刊『考えない人』のカバーに描かれている顔です(しりあがり寿氏・画)。

 なんだ、そうだったのか。私は「考えない人」になっていただけなのか。夜の高速道路を往復しながら考えなくなり、人間であることを次第に忘れ、犬のような境地にたどりついたというわけか。このしりあがりさんの描く人の、幽体離脱して間もない抜け殻のような、あるいは離脱した幽体の姿はこれかとも見える、この半端なかたちと鼻のあたりのぐるぐるの脱力的迫力。

「考える人」創刊以来の連載「考えない」が単行本になったことは、個人的にもたいへんよろこばしいことでした。名作『牛への道』以来、宮沢章夫さんのエッセイの中毒になり、「考える人」創刊と同時に「考えない」のタイトルで連載を引き受けてくださったと担当編集者から知らされたときは、犬に骨ガム級のうれしさだったことを覚えています。

 宮沢さんのエッセイのおもしろさをご存じない方が万が一いらっしゃるとしたら、もうそれは「だまされたと思って読んでください」としか言いようがありません。そして、これもさんざん言われてきた言い方になってしまいますが、「まわりに他人がいないところで読んだほうがいいですよ」。電車で読んではだめです。満員電車だろうが、がらがらの電車だろうが、ひとりで本を読みながら吹き出したり、くすくす笑ったりする変な人になってしまう。おすすめしません。

 私の場合は、深夜のお風呂です。風呂につかりながら読む。誰にも気がねなく、宮沢さんの文章を読みながら、怪しく笑えるからです。とくに入稿校了期間の、へとへとへなへななのに頭のなかはぎらぎら興奮している。そんなときに宮沢さんの本はすごく効きます。

 しかし唸ったのは、宮沢さんがひっそり一回だけ連載を休んだときがあり、宮沢さんは心臓の冠動脈のバイパス手術を受けていたのですが、そのときの手術の一部始終を描いた「音楽が消えた夏」(ちなみにこれは「考える人」連載の原稿ではありません。本書には「考える人」連載以外のものも多数収録されています)。自分が経験した大きな手術を、こんなふうに書くことができるのは、やはり宮沢さんしかいないでしょう。笑いました(宮沢さん、恢復されて、ほんとうに何よりでした)。

 同僚の仕事ですが、本書の帯もいい。日本の出版界がCO2削減を考えるなら、まっさきにその対象にすべきだと個人的には考えている帯の、表と背と裏まで使い、これでもかと「考えない」のオンパレード。担当編集者の宮沢さんへの愛を感じました。いい本だな。
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