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大岡昇平『わが文学生活』(中公文庫)

 次号(4月3日発売)の特集は、「はじめて読む聖書」です。特集のなかでは、何人かの方に聖書をめぐってインタビューをさせていただきました。そして、もしもご存命だったら、聖書のお話をぜひうかがいたかった、と校了後にあらためて思ったのは、須賀敦子さん、色川武大さん、そして大岡昇平さんでした。

 大岡昇平さんは、12歳で青山学院中等部に入学し、そこで出会ったキリスト教におおきく影響を受けます。信者として生きてゆく道を歩みはじめることはもちろん、さらには将来、牧師になる可能性すら意識していた時期が、この多感な大岡少年に、訪れるのです。

 このあたりの心理的ないきさつについては、『少年 ある自伝の試み』に詳しく書かれています。大岡少年には、母親の財布から小銭を盗む癖があり、また中学生の男子にとって、誰にもひとしく目覚める性欲の問題もあり、誰にも相談のできない心理的な行き止まりのところで、キリスト教に、そして聖書に、出会うことになるのです。

『少年 ある自伝の試み』の冒頭の部分に、こんなくだりがでてきます。
 
 私の成長後できた友人の幾人かは、少年時に母の財布からの盗みを経験しており、あまり重要性をおいていない。他人のものに手をかけなければ、家のものは子供のものと考えることも出来るので、それでもいいかも知れない。私もなにもこんな恥しいことを書かないでもいいのであるが、これは三年後、中学一年の時のキリスト教への帰依に関係している。その時、私がなぜ神を求めたか、またなぜ信仰を失うに到ったかを検討するのが、この回想の目標の一つなので、この詳細を省くわけに行かない。私が神にすがることによってよい人間になろう、と思った理由は、ほかにもあって、私はまだいやな告白をしなければならないが、とにかく私の盗癖は、成長して私の必要とする額が、それら小額の補助貨幣では間に合わなくなるまで続いたのである。
 
 自伝を書くに際して、回想を書けば事足れりと高をくくらないのが、『俘虜記』『レイテ戦記』の書き手である大岡さんならではの姿勢です。『少年』を書くために、あらたに文献を手に入れ、知人の証言を得ながら、ときに自分の記憶を訂正して書きすすめられている。タイトルがある意味で突き放した、三人称的な「少年」となっていることにも、この自伝の特殊性が表れていると思います。

 ほんとうなら書かないでもすむはずのことを、しかも露悪的ではなく、淡々と記述できるのは、大岡昇平という人の本来的な資質にかかわることであると同時に、戦争体験と少年時代のキリスト教との出会いがおおきくかかわっているのではないか、と思います。この『少年』が、季刊誌「文芸展望」に連載されたのは1973年から75年まで。『レイテ戦記』が刊行されたのが71年。そして今回ご紹介する本書は、『少年』の連載が完結する約1年前に、秋山駿、菅野昭正、中野孝次の三氏が、二日間をかけて大岡昇平氏にインタビューした記録をもとに、まとめられたものです。

 大岡さんにお目にかかって聖書のお話をうかがいたかったのは、大岡さんが、ある種の「おしゃべり」の達人であったらしいことも、かかわってきます。私は大岡さんの謦咳に接することはかないませんでしたが、大岡さんが電話魔であったことや、談話のおもしろい方であったことを、何人かの先輩編集者や作家の方から伝え聞いていました。

 本書はそんな大岡さんの、話し言葉ならではの面白さが溢れています。本書のなかで聖書について触れられている部分をいくつか引いてみましょう。
 
とにかく『聖書』というのはぼくの知恵の目覚めだったんですね。腕力が弱かったから「右の頬を打たれたら他の頬を向けよ」という無抵抗の強さの発見だったかも知れない。イエスという人間が好きになっちゃったということ、いろいろあると思うんですけれど、キリスト教はよく考えてみると、イエスは貢とりも仲間へ入れるし、淫売婦ともいいわけだよね。それはぼくの両親、芸者であった母親と、相場師であった父親を、両方くるみこむ教えだったですね。

しかしたしかに一人の人間としてイエスは、ぼくには依然として最も尊敬すべき人物なので、いまだにこれは僕の最も弱い部分なのですよ。映画でもなんでもイエスが出て来ると、もういけないんです。

聖書には好きだった句が数えきれないほどありますよ。「悩める者は幸ひなり、慰めらるることを得ん」「一粒の麦もし死なずば一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし」「心の貧しき者は幸ひなり」なんて調子でね。
 
 大岡さんにお話をうかがいたかったのはもちろんですが、「考える人」の特集についてもどんな感想をお持ちになるか、そのこともふくめてうかがいたかった気がしてきます。晩年になっても旺盛な好奇心を失われなかった大岡さんが、「なかなか面白かったよ」と言ってくださるような内容に、特集「はじめて読む聖書」をまとめることができたのではないか──校了直後のやや興奮気味の頭で、そんなことも思うからです。
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