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河合隼雄『昔話と日本人の心』(岩波現代文庫)

 この七月で、河合隼雄さんが亡くなって三年になります。時の経つのはほんとうに早い。ここのところ河合さんの著作に手が伸びる機会がふえています。ご本人がいらっしゃらなくなっても本は残る──このあたりまえの事実をあらためて意識します。本というメディアはじつにありがたいものだとおもいます。

 河合さんの突然の不在になれるまでは時間がかかりました。しかし遺された著作に触れているあいだは、河合さんの声がよみがえります。人間が「物語」をぬきにしては生きていけないものであるということを、河合さんはさまざまな本による変奏を響かせながら、繰り返し私たちに問いかけてくる。

 グローバリズムがひろがり、小説、映画、音楽といった表現を世界でほぼ同時に享受することが加速度的に可能になりつつあります。しかし物語というのはもっと長い時間の濾過装置を経て伝わってきたものです。ひとつの民族のなかでだけ共有されていた物語が、人々の移動と時間の流れのなかで驚くほど広い範囲に伝わることもあれば、世界各地で同時発生的に、同じような物語が生まれ、語られていた場合もあったでしょう。しかし、物語が語り継がれてゆくには、それぞれの民族のこころに物語が降りてゆき、しっかりと腑に落ちなければならない。いつしか消えていった物語も無数にあったにちがいない。

 本書は、表題にあるとおり、日本人が語り継いできた「昔話」をとりあげながら、その物語に現れている日本人の「心」のありかたを読み解いてゆこうとするものです。単行本として刊行されたのが1982年。バブル経済も、グローバリズムも、まだその大きな影をみせてはいない時期でした。当時の女性は、出産を期に退社するのは当たり前で、結婚退社すら自然なことだと思われていました。男女雇用機会均等法も施行される以前のことです。

 今回、再読してさまざまな刺戟を受けましたが、日本の昔話に登場する女性の生き方、結婚というむすびつきに繰り返しあらわれる物語のパターン、そして日本における圧倒的な母性原理の強さが、西欧の昔話とはかなり質を異なるものにしている、ということが論じられています。河合さんの他の著作でも何度となく検討されているテーマでありながら、本書はなぜか河合さんのなかにある確信のようなものが、はっきりと打ち出されています。河合さんのヴォイスにみなぎる力はどこからやってきたのか。

 本書の後半では、キリスト教の三位一体の考え方、すなわち「父なる神」=父権性原理だけでは心の全体性をあらわすことが難しいとし、四位一体説をとなえたユングの思想が補助線として引かれています。ユングは三位一体に「悪」という四つ目の軸を導入します。この「悪」の導入についての河合さんの言葉がすばらしい。
 
 神と悪魔とを完全に分離し、三位一体の絶対善の神とそれに敵対する悪魔との戦いのなかで、人間がいかに神にのみ従おうとしても無理である。人間の心理的現実を直視するならば、われわれが悪をいかに拒否しようと努めても、それに従わされることを認めざるを得ないであろう。人間は絶対善を求めるよりも、むしろ、善悪の相対化のなかに立ちすくみ、それに耐える強さを持たねばならない。そのとき、われわれの意識的判断を超えた四位一体の神のはたらきが、われわれを救ってくれることを体験するであろう。
 
 日本人と女性性をめぐっての河合さんの示唆に富む指摘を最後にもう一カ所だけあげておきましょう。このくだりを読めば、本書がたんなる過去の名著ではなく、これからも両義的に読み継がれることが可能であり、そのように求められてゆく幅と奥行きのある本だということがおわかりになるのではないかと思います。
 
 第1章において、女性の姿によってこそ日本人の自我は示されるのではないか、と示唆しておいた。怪物を退治して女性を獲得する男性の英雄ではなく、耐える生き方を経験した後に、反転して極めて積極的となり、潜在する宝の存在を意識していない男性に、意識の灯をともす役割をもつ女性は、日本人の自我を表わすものとして最もふさわしいものではないかと思われる。もっとも、このような姿は、後にも述べるように、日本人の現在の姿よりも未来を先取りしているものと解釈する方が妥当であるとも考えられる(後略)。
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