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伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』(講談社学術文庫)

 修道院と聞けば、大きな声など誰もださない、静かな祈りの場というイメージを思い浮かべるでしょう。しかし十二世紀あたりからのヨーロッパ中世の修道院は、もう少しアクティブな、異文化とのインターフェイスの役割を積極的に果たす場としても機能していたようです。「書物」というメディアの発信地として、修道院は活発な動きをみせていたのです。

 グーテンベルクの発明がもたらした、世界で初めての活版印刷による本、「四十二行聖書」が刊行されたのが1455年。それまでは、あらゆる書物はすべて手作業によって、一冊一冊、長い時間をかけて作られていました。オリジナルは一冊だけ。複製を用意するには、そのオリジナルを正確に写すしかない。

 活版印刷が登場するまでの中世では、書物といえば写本のことであり、宗教書の占める割合が圧倒的でした。必然的に多くの書物は、修道院のなかで、熟練の写本僧たちの手でつくられていた、ということになります。

 ウンベルト・エーコの原作を映画化した『薔薇の名前』をみると、修道院のなかにある写本工房の様子はこんなものだったのだろう、と想像することができます。ちょっとおどろおどろしい演出が過剰ではありますが、写本の装飾文字や装飾画の担当者がいたり、翻訳者がいたり、役割分担がされている様子や、薄暗い修道院のなかでは例外的に外光のはいる窓が大きくとられていて、要するにこれが元祖出版社ということになるわけか、と思ったりもします。

『薔薇の名前』で活躍するのは、フランシスコ会修道士で元は異端審問官であったウィリアム(映画では、ショーン・コネリーが演じています。村上春樹さんの小説『1Q84』の女性主人公が、その頭のかたちに憧れて言及していた、あのショーン・コネリーです)。『薔薇の名前』の舞台は1327年のイタリア。今回とりあげた本書『十二世紀ルネサンス』には、修道士ウィリアムにも匹敵する、知性と勇気を兼ね備えた、魅力的な修道士が登場します。彼の名前はピエール・ル・ヴェネラブル。通称「尊者ピエール」。

 本書をたよりに、駆け足で十二世紀のヨーロッパをふりかえれば、科学も文化も都市文明も数歩先へ進んでいたアラビア世界から見ると、ヨーロッパは「後進国」あるいは「辺境」と呼ばれてもしかたのない停滞のなかにありました。しかし、農業の技術革新による食糧増産が進み、毛織物などの輸出による商業の活発化、都市の勃興、大学の成立、知識人の誕生など、経済的な進展を背景とする新たな国家形成の段階に入っていたのです。

 幾何学、プトレマイオスの天文学、アリストテレスの哲学、論理学、自然科学、政治学……といった古代ヨーロッパの叡智をほとんど忘却したままだった中世ヨーロッパは、アラビアに温存され、あるいは磨き上げられていたそれらの学問を逆輸入することになります。その最先端の現場となったのがイベリア半島、すなわち、長らくイスラムに征服されていたスペインでした。

 当時のイベリア半島は、イスラムの支配下にありながら、キリスト教文化も排除されることなく、イスラム教とのサラダボウル的な交わりがなされていました。したがって、西欧のレコンキスタ(再征服運動)により、イベリア半島のトレドが1085年にヨーロッパ側に復帰して以降、トレドはアラビア文化を吸収する最前線の基地として機能するようになります。アラビア文献のラテン語訳の学校も創立され、西欧の知識愛好家はつぎつぎにトレドに集結します。

 フランス人の尊者ピエールもそのひとりでした。クリュニー修道院の院長であった48歳の尊者ピエールは、イスラムを理解するために、クリュニーからスペインに向かいます。そしてスペインに集まりつつあった優れた翻訳者たちを組織化して、「コーラン」のラテン語版を翻訳させるのです。もちろんその原動力がキリスト教の信仰と布教であったとしても、旺盛な知識欲があってこそ、そのような労力を厭わない姿勢が生まれたはずです。

 尊者ピエールがのこした言葉には、このようなものがあるそうです。イスラム教徒に向けての言葉──「我々の仲間がしばしばなしているように、武器によってではなく言葉によって、力によってではなく理性によって、憎しみによってではなく愛によって、私はあなたがたに語りかける」

「武器」とあるのは、十字軍をさしての言葉でしょう。本書でその存在を初めて知った尊者ピエールは、異文化に向き合う態度、知識欲のもたらす良きことを、具体的な行動で示してくれるきわめて興味深い人物です。また、翻訳という仕事が果たす役割、世界史的な意味合いを、あらためて考え直すヒントも与えてくれました。よみやすく、刺戟的で、いまこそ読まれるべき一冊だと思います。
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