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『吉本隆明全著作集 5 文学論II』(勁草書房)

 キンドルを手に入れてあらためて思うのは、eペーパーという媒体が実にすぐれたものだということです。「考える人」編集部の同僚がiPadを発売当日に手に入れて、編集部に持ってきてくれ、実際に触らせてもらい、画面を見てみた印象と、キンドルのそれとは、やはりだいぶ違うものだなと思いました。キンドルは、紙に印刷された文字の読みやすさに限りなく近い。

 簡単に言えば、キンドルのeペーパーは、長時間文字を読み続けていても、紙に印刷された文字を読み続けるのと同じ感覚だ、ということです。iPadは、文字だけを長時間読み続けると現状ではやや疲れるかもしれない(もちろんそれは、パソコンの画面で延々と文字を読みつづける感覚とまったく同じなのですが)。

 キンドルは本のように両手に持って、ソファにごろりと横になって読んでいても、大丈夫です。しかしiPadは横になって読むのにはいささか重い。キンドルは横になって読んでいてうっかり居眠りをして床に落としても壊れないでしょうが、iPadは自重もあるしガラス面が割れたりしないだろうか、と心配になります。

 同僚も「iPadは新聞や雑誌的なものを読むのがいいですね」と言います。もちろんiPadもこれからおそらく短期間で軽量化され、画面の表示も変わってゆくに違いありませんから、たとえば長篇小説を読むのには適さないのではという感想も述べるにしても、2010年の初夏の段階においては、という留保をつける必要はあるでしょう。

 さて、キンドルです。これはシェイクスピア全集が1分足らずでダウンロードできる。ならば、日本語で読めるものがラインナップされるようになったら、自分は何をダウンロードするだろうか、と考えてみました。それはやはり、私の場合は全集の類になるのではないか、というのがいまのところの考えです。おそらく私は、死ぬまで紙とインクの本は読み続けるでしょう。書物を読むという行為はそれほど自分の身体に馴染んだものだからです。

 それではキンドルをどう使うか。私の場合は、iPodの使い方と同じです。つまり自分の音楽のライブラリーを、いつでもどこでも持ち歩いて聴くことができるようにするということ。書物の場合は、夏目漱石全集や、吉田健一著作集、もちろん聖書もシェイクスピア全集もドストエフスキー全集もE・M・フォースター著作集も星野道夫著作集も、自分がすでに本として持っているものが将来電子書籍化されてキンドルにダウンロードできるのなら、私は書物を維持しつつ、それをキンドルに入れて持ち歩きたい。

 私がiPodを手に入れて使うようになり驚いたのは、それまでの自分のCDのライブラリーが片っ端から生き返るような感じがしたことです。さんざん聴いてきたCDも、家でステレオで聴くのとはまったく違う様相をおびて、すべての音楽が新鮮に聞こえたのです。収録された曲をシャッフルで聴くときの驚きもすごい。

 たとえば、吉本隆明全著作集がキンドルに入っていたら、聖書の特集をする際に、本書に収録されている「読書について」(初出は昭和三十五年の「新刊ニュース」。「マチウ書試論」が収録された『芸術的抵抗と挫折』の刊行の翌年なので、おそらくそれをふまえた依頼原稿なのだと思います)という短文に、もっと早く気がついていたのではないか、と思うのです。

「はじめて読む聖書」特集で吉本さんにインタビューをさせていただき、「マチウ書試論」をお書きになるまでのいきさつをうかがいました。この短文には、そのあたりのことが書かれています(つまり、私は大学生の頃に、この短文を読んでいたはずなのです。しかしすっかり忘れていた)。おとといの夜、たまたま書棚からひっぱりだして読んでいたら、この短文にぶつかったのです。

 この短文の最後の部分を読み、吉本さんはこんなふうに本を読んでいらしたのか、とあらためて唸りました。ファーブルの『昆虫記』、『新約聖書』、マルクスの『資本論』の読書体験について書きながら、残ってゆく本とはそもそもどういう本なのかということをはっきりと言い当てている。長くなりますが、中略をしつつ、引用させていただきます。『吉本隆明全著作集』をキンドルに入れて持ち歩くことになれば、このような言葉との再会がもっと頻繁になるような気がするのです。私はその日が待ち遠しい。
 
 このようにかんがえてくると、わたしの読書範囲で、ほとんど現実的な事件とおなじように精神を動かした書物には、何か共通の性格があるような気がする。(中略)人間とは、生れ、子供となり、青年となり、壮年となり、老人となり死ぬまでの間に、何か為すべきことを程度に応じて為すために生涯があるのだ、というような軌道をまったくはずれて、とにかく、どんな微細な事であれ、巨大な事であれ、事の大小にかかわりなく、その事のために膨大な時間を浪費することのできた人間の精神的な生活が書物のなかにあるとき、その書物は事件のようにわたしのこころを動かすのではないか。
『昆虫記』のファーブルも、『新約書』の作者も、『資本論』のマルクスも、また、やがてわたしが遭遇するであろうすぐれた書物の著者も、その著書によってどうしようと考えるよりまえに、彼自身の生自体が必然的にそこにのめり込み、のめり込んだ主題につきすすんだままやがて気がつくと、膨大な時間を浪費していた、という種類の人物であることはうたがいない。ファーブルは、昆虫を眺めて、ふとわれにかえったらシラガのお爺さん、新約書の作者は人を愛憎して、ふとわれにかえったらシラガのお爺さん。マルクスは資本主義社会の正体をあばいて、ふとわれにかえったらシラガのお爺さん。読書が、こういう人物の精神に出あうためになされるのでなければ、あるいは、書物よりも、現実のほうがずっとおもしろいのではないかとかんがえる。
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