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倉谷うらら『フジツボ―魅惑の足まねき―』
(岩波科学ライブラリー)

 フジツボな人

 次号の特集についてぼんやり考えているうちに、この1冊を思い出しました。1年前に出た本なのですが、読後しばらくは会う人ごとに薦めた楽しい1冊です。「自分でもあきれるほどに、フジツボに心を奪われています」と告白する筆者のフジツボ愛に感染したとしか思えない読書体験でした。

 フジツボといえば、よく岩場にくっついているアレです。恐竜が現れる遥か以前の古生代カンブリア紀中期(約5億3千万年前)の地層から発見されているという地球上の大長老なのですが、悠久なる歴史とともに進化を遂げてきた経歴にもかかわらず、人に好印象は持たれていません。船底に付着する「汚損生物」と見なされ、紀元前の昔から古代ギリシャ人もエジプト人もフェニキア人も、いかにこの汚損を防ぐかに頭を悩ませてきました。日露戦争でロシアのバルティック艦隊が日本に敗れたのもフジツボのせいだと言われています。というのも、アフリカの喜望峰をぐるりと周り、地球を半周以上も航海してきた彼らの船底にはフジツボが「推力抵抗」として貼り付いていたのです。当時、日英同盟が締結されていたために、英国統治下の通過港で船底掃除をするわけにもいかなかったロシア艦隊の船足は徐々に鈍り、おかげでわが国は決戦準備のための時間稼ぎと、海上戦でのアドバンテージを得ることができたというわけです。

 では、そもそもフジツボとはどういう生き物なのでしょう? 19世紀のある博物学者は彼らの生活ぶりをこう表現したそうです。
 
「石灰質の家の中で逆立ちした
ちっぽけなエビのような生き物が
足で食べ物を口に蹴り込んでいる」
 
 フジツボはエビやカニと同じ甲殻類です。にもかかわらず、動き回らずに水中の岩や人工物にピタリとくっついて生息するライフスタイルを選択しました。そして殻から6対の足(蔓脚といいます)を手招きするように出し入れしながら、イソギンチャクの触手のように海水中に漂うプランクトンをたくみにキャッチし、足の付け根の口に運んで食べるのです。またフジツボは脱皮を繰り返し、姿を大きく変えながら成長するのですが、「付着先の土地探し」をするのはキプリス幼生の役割です。キプリス幼生は「優良物件」を求めてあちこちを高速で泳ぎ回った後、付着の候補地を射止めると、高機能接着剤を分泌して足場を固め、フジツボ様式の生活をスタートさせるのだといいます。ちなみに、この時に分泌される「フジツボ・セメント」は「7000万年前のフジツボ特許」とも言える物質で、(1)さまざまなタイプの表面に付く、(2)水中で付く等々、人類にとっては夢の接着剤なのだそうです。

 フジツボ的生活で言えば、動かない生物がどうやって繁殖するのかという謎も解き明かされます。なんと交尾のために体長の約8倍にも長く伸びるペニスを持っているそうで、米国では一般の人がフジツボと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、この「動物界一の長さ」だそうです。またフジツボの「お手洗い」事情にも驚異の秘密があります。このように、フジツボの世界は実に奥が深く、かのチャールズ・ダーウィンの進化論にもフジツボが大きく関わっていることをこの本で初めて知りました。ビーグル号による5年の航海を終えて英国に帰ったダーウィンは、その23年後に『種の起源』を出版するまでの8年もの歳月、自宅にこもって合計1万ものフジツボ標本と格闘し、「私の愛しのフジツボ」と呼びかけながら全4巻の『フジツボ総説』を書き上げたというのです。

 こうしたフジツボ研究の幅広い成果から、筆者は興味深い知見の数々を、明晰に、軽やかに、楽しげに披露してくれます。それを多彩なイラストが手助けしています。私のような門外漢が何の苦もなく理解できる、というのはよほどの説明能力だと思います。しかし、それにもまして何より感動的なのは、筆者の自然に対する生き生きとした感性、畏敬の念がさりげなく伝わってくる点でしょう。

「ヒトがフジツボの生態から学ぶことは尽きないように思う。とにかく地球上に生きてきた時間の長さが違う。アノマロカリスと同じ海にすみ、全生物の九割以上が消えたというペルム紀の大絶滅をも生き抜き、地球規模の様々な場所で多様に進化してきた生物である」と述べる筆者は、ダーウィンのフジツボ愛に思いをはせながら、『種の起源』の結びの言葉を思い浮かべます。
 
  from so simple a beginning endless forms most beautiful
     and most wonderful have been, and are being evolved
(じつに単純なものからきわめて美しくきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ。渡辺政隆訳)
 
 幼い頃に岩場で怪我をしたり、すり傷をつくりながら五感で感受した「磯での思い出」がいまの自分の拠り所だと筆者は言います。ですから筆者にとって、生き物の気配がまったく感じられない人工ビーチや人工干潟は「寒々しい」光景でしかありません。「そういう場所を『海』という思い出の箱にしまう子どもは、かわいそうだ」と。

 見て、触れて、自然を全身で受け止めることの大切さ。こういう「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)は、この本作りにも反映されています。「あとがき」につづく「付録」では「フジツボを観察しよう」というガイダンスがあり、フジツボの殻でアクセサリーを作る手引きもあります。さらに「組み立てながら、フジツボの体のつくりや部分名称を理解しよう」という型紙が付いていて、これを拡大コピーして実際に作ってみると、このアナログ感がたまりません。昔懐かしい科学雑誌の(まさに付録の)楽しさを思い出します。デジタル時代に、このチャレンジ精神はお見事です。こうしたアナログ手法こそが、フジツボをぐっと身近なものにしてくれます。さらに、この本の本扉には葛飾北斎「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」があるのですが、よく見れば、例の逆巻く波のかなたに見える富士山はフジツボの雄姿に変わっています。また各右ページの下隅には小さなイラストが添えられているのですが、これはフジツボの生涯を辿るパラパラマンガでした。

 隅々まで行き届いた本作り。筆者と編集者(この岩波科学ライブラリー・シリーズ〈生きものの傑作「クマムシ?!」「ハダカデバネズミ」と同じ編集者でした)の愛と情熱が渾然一体となったこの本は、夏休み向けの1冊です。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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