Kangaeruhito HTML Mail Magazine 399
 
 自分の頭で考える

 梅棹忠夫さんが亡くなりました。90歳。訃報の見出しには「知の探検家」「独創的な文明論」「知の一線 談論風発」といった言葉が並んでいましたが、私にも感慨がありました。というのも氏の最初の著作である『モゴール族探検記』を高校時代に読んで、こういう学問の世界もあるのか、書斎や研究室に閉じこもって黙々と勉強するのではなく、人の行かないようなところへ出かけ、そこで何ヶ月も暮らしながら見たこと、考えたことを記述すれば、それもまた学問になるんだ、ということを最初に教えてくれたのがこの本だったからです。フィールドワークという言葉に魅せられた記憶の名残りは、アカデミズムとは縁がないままジャーナリズムの片隅で生きるようになったいまも、かすかに自分の中に生きています。

 結局、梅棹さんと直接仕事をする機会はありませんでしたが、あまりにも有名な論壇デビュー――37歳の理科系の学者が世界史を論じ、当時の思想界に「コペルニクス的転換」をもたらしたという「文明の生態史観序説」(1957年)のインパクトや、65歳で視力を失ってなお、いささかも執筆の意欲が衰えることなく、全23巻の著作集を4年8ヶ月がかりで刊行していったいきさつなどを聞くにつけ、自由闊達にして腹の据わった、外柔内剛の人という印象を強く抱いていました。没後いくつかの追悼文が出ましたが、一番驚いたのは次の梅原猛さん(哲学者・元国際日本文化研究センター所長)の一文でした。少し長いのですが、そのまま引用したいと思います(読売新聞2010年7月7日)。

〈梅棹氏について忘れられない思い出がある。ある料亭で梅棹氏などと酒を飲んでいるところに突然、酔っ払った中国文学者の吉川幸次郎先生が入ってきた。その吉川先生のただならぬ様子に気づいて、梅棹氏の隣に座っていた私が席を空けると、そこへ吉川先生が割り込んできた。吉川先生ほど中国の文献を深く正確に読み込んだ学者はなく、そのような吉川先生は、文献研究よりフィールド調査を重視する梅棹氏の学問について不快感を抱いていたようであった。
 そこで二人の間で、文献研究が重要か、フィールド調査が重要かという大論争になり、ついに吉川先生が梅棹さんにつかみかかった。それを見た上山春平氏と福永光司氏が二人の間に分け入り、柔道五段の福永氏が吉川先生を羽交い締めにして別室に連れていった姿が今でも瞼にありありと浮かぶ。私はこの二人の凄まじい喧嘩を見て、二人の学者をますます尊敬することになった〉

 酔った作家同士の取っ組み合いや、編集者の乱暴狼藉に立ち会うことはよくありましたが、第一級の学者同士のこうした「信念の激突」はさぞ凄まじかったであろうとしか言いようがありません。同時に、おそらく昭和40年前後かと思うのですが、その頃の京都にみなぎっていた学問への情熱、若々しいエネルギーに郷愁や羨望を感じないではいられません。ちょうどこの文章に接した直後に、西洋史家の樺山紘一さん(印刷博物館館長)から梅棹さんの思い出を聞く機会がありました。樺山さんは若い頃に、約7年間、京都大学人文科学研究所で梅棹さんの謦咳に接した間柄なのですが、その時に戒められたこととして次の2点を教えて下さいました。

(1)「文章は分かりやすく書かなければいけない。誰でも理解できる(隣の豆腐屋のおばさんにも分かる)平易なものでなければならない」

(2)「本を読み過ぎるな。読み過ぎるとバカになる。読む本の数はなるべく減らして、そのぶん現場に行って歩け。自分の足で歩いて、自分の頭で考えろ」

「本は読み上げた時、耳で聞いても理解できる難度のものでなければならない」ともおっしゃったそうですが、失明後は秘書に読み上げてもらいながら読書し、執筆は「口述ワープロ打ち」で行っていた氏の姿がダブります。梅棹さんは若い時分に「人生と学問の師」である今西錦司さんから厳しく指導されたとも語っています。「フィールドワーカーは必ず報告書を書かなくてはいけない、ただし一般には難しく書くのがえらいという思い込みがあるけれども、『読んでわかるように書かなあかん』」。こう言われて徹底的に文章を直された、と。また学者の基本的姿勢として、今西門下では「だれかが人の本の引用をしたりすると、『君、それは自分の目で見たことか』とたたかれ、“借りもの”の学説で発表するのは許されなかった」とも(「時代の証言者 文明学」)。

(1)も(2)も言葉にするとアッサリしたものですが、どちらも簡単にできることではありません。「誰でも分かるように書く」「自分の目で見て、自分の頭で考える」――まるでイチロー選手にバッティングの極意を尋ねた時の答えみたいです。免許皆伝の文句がそうであるように、あっけらかんとした近寄りがたさがあります。

「自分の頭で考えた『オリジナル』しか評価しない。それが学問に対するわたしたちの姿勢でした」(「時代の証言者 文明学」)。

「あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく」(『日本探検』)を実践し続けた人の足跡を振り返ると、その領域の広がりとそれを可能にした知的蓄積の独創性に改めて驚かされます。梅棹学説の有効性とともに、その生き方に惹かれる所以です。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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